清代の寧古塔とは? わかりやすく解説

清代の寧古塔

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 18:05 UTC 版)

寧古塔」の記事における「清代の寧古塔」の解説

寧古塔清朝打ち立てた愛新覚羅氏発祥の地であった満州語では「6個ずつ」のことをningguta(ニングタ)といい、太祖ヌルハチ曾祖父フマン福満)から生まれた6人兄弟がこの地にいたことに由来する地名といわれる。ningguta beise(寧古塔貝子六人の王)という地名縮まって寧古塔となった寧古塔には旧城と新城がある。最初寧古塔(旧城)は現在の牡丹江市海林市長汀鎮の海浪河南岸の盆地にあった。旧城は内城周囲687m)と外城周囲2,500m)で囲まれ小規模な都市であり、今もその遺構残っている。海林周辺農地としても肥沃であるほか林業漁業狩猟適地でもあり、陸路水路など交通の要所でもあった。 17世紀半ば満州北部にはロシア・ツァーリ国コサックらが進出しエロフェイ・ハバロフ探検はじめとするロシア人軍事活動征服活動によって治安揺らいでいた。1653年順治10年)、アムール川黒竜江)・ウスリー川沿岸一帯抑える軍事組織であるアムバン・ジャンギン(amban janggin、昂邦章京)とメイレニ・ジャンギン(meilen i janggin、勒章京)が寧古塔城に置かれ寧古塔満州支配のための拠点として強化された。1662年康熙元年)にはアムバン・ジャンギンはニングタイ・ジャンギュン(ningguta i jiyanggiyūn、寧古塔将軍)に、メイレニ・ジャンギンの漢語名副都統に改められ寧古塔将軍1666年康熙5年)に海浪河より大きな河川である牡丹江接した新城現在の牡丹江市寧安市寧安県城)に移転した以後新城寧古塔呼ばれることとなる。 1676年には寧古塔将軍吉林移駐してしまい吉林将軍改称しアムール川河口までを管轄とするようになったが、寧古塔の城はこれ以後寧古塔副都統が残り満州東部軍事政治・経済の重要拠点であり続けた沿岸狩猟民族らが毛皮などの産品携えて牡丹江ウスリーアムールをたどり、寧古塔交易行った遠く蝦夷地北海道樺太千島列島)のアイヌ人も、黒竜江河口少数民族を介して寧古塔から来る絹など清の産品毛皮などを交換する山丹貿易よばれる貿易活動行っていた。清代中期牡丹江下流建設された三姓(イラン・ハラ、現在のハルビン市依蘭県)の街が毛皮貢納一手に引き受ける前は寧古塔がこれらの貿易統括していた。また流刑地としても使われた。

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