清代の海禁
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/04 16:43 UTC 版)
清代海禁関連年表1644年 清入関 1655年 海禁令 1656年 海禁令 1661年 遷界令 1662年 海禁強化 鄭氏台湾占領 1667年 海禁令 1668年 外国商船来航禁止 1672年 海禁令 1673年 海禁令 三藩の乱勃発 1679年 マカオの陸路交易の許可 1680年 海禁緩和 1681年 三藩の乱終息 1683年 鄭氏政権降服 展界開始 1684年 海禁処分の停止 廈門、広州に海関設置 外国商船の来航許可 1685年 寧波、上海に海関設置 1708年 米禁 1717年 南洋海禁 1727年 南洋海禁の解除 1739年 北洋における米禁解除 1742年 商船の回航期限 1757年 広東貿易体制開始 1759年 糸類海上積み出しの禁止 1764年 糸類禁輸の解除 1840年 アヘン戦争勃発 1842年 アヘン戦争終結、南京条約 明朝滅亡の混乱に乗じ入関を果たした清朝は、1647年には浙東・福建を平定したとして日本・琉球等海外諸国に朝貢を呼び掛けた。しかし東南沿海部では鄭氏政権が島嶼部を拠点に頑強に抵抗を続け、制海権を掌握して1659年には北伐を行い南京にまで攻め寄せている。 鄭氏政権は日明貿易に従事していた海商勢力から台頭した勢力で、その財政基盤は日中貿易に大きく依存していた。清朝は入関当初こそ海外貿易を禁じることなく商人の出海を容認していたが、鄭氏政権孤立化を目論んで1655年に海禁令を発布し、許可証を有する者を除き大型船の建造や海外貿易を禁止した。翌年には違反者の厳罰を定め、その後も度々海禁令を発して海禁の厳守を図った。特に1661年には遷界令によって海浜部住民を強制的に内陸部に移住させ、海外貿易に止まらず沿岸貿易・沿岸漁業も禁じた厳格な海禁を行った。1668年には外国商船の来航も禁じられ、貿易は朝貢貿易に限定された。僅かに澳門におけるポルトガルとの陸上貿易が容認されたほか、オランダは広州で「朝貢」貿易を認められた。また弁銅貿易も例外であった。中国では明代から原銅資源が枯渇し、明朝は銅銭鋳造を半ば放棄して紙幣流通を試みていた。それに対し、清朝は原銅確保に腐心しながら銅銭鋳造を行っており、当該期における長崎来航中国船の一部は清朝の黙許の元に派遣されたものと推定される。 鄭氏は海禁によって沿海部住民と切り離され、新たな拠点を求めてオランダ統治下の台湾へ進出を余儀なくされる。その一方で沿海部官兵は賄賂を受け取り商人の鄭氏との接触を黙認し、三藩統治下の福建・広東の地方政府に至っては官憲を挙げて鄭氏やオランダ、ポルトガルと密貿易を行っており、鄭氏の行う日中貿易は途絶えることはなかった。鄭氏は海禁令により一定の打撃を受けたものの日本・中国・東南アジアの三角貿易を続け、当時の東アジア海上貿易は鄭氏のほぼ独占するところとなっていたと見られている。 しかし、海禁令は沿海部を中心に中国の社会・経済に深刻な打撃を与えた。海運の断絶は生活必需品を省外に依存していた福建省を中心に経済的混乱をもたらし、遷界令によって海浜部住民は離散移住を強いられ血縁・地縁を基盤にしていた地域社会は大きな打撃を被った。銀・銅不足は清国国内に一種のデフレを引き起こし、経済は一時破綻寸前にまで追い込まれた。 「遷界令」も参照 清朝の海禁令は鄭氏政権の糧道遮断を目的としたものであり、鄭氏が降服するとその役目を終え停止される。1680年には台湾より隔たった直隷・山東・江蘇の各省で沿岸航行が許可され、1683年に鄭氏政権が降服すると同年中に遷界令が解かれて海浜部への展界が始まる。翌年には海禁令は全て停止され、85年には外国商船の来航も許可される。清朝は廈門・広州・寧波・上海に海関を設置し、出海する中国人海商や来航する外国商船から関税の徴収を行った。 こうして基本的に海禁は解除されるが、清朝は全面的に民間人の海上利用を認めたわけではなかった。船の建造には事前に届け出る必要が有り、出海時には船の大きさに応じて乗員の上限が定められ、乗員名簿を届け出て出海許可を受けなければならなかった。許可を得た航路を外れて航行することも禁じられ、禁制品の海上積み出しも制限された。 禁制品は金・銀・銅・武器・軍需物資などであるが、米の海上積み出しも禁じられた。海禁解除後、江蘇省・浙江省では福建省に米が流れて米価が上昇する。清朝は米価上昇を外洋(外国や海賊)への米流出を示すものとみなし、1708年に米禁を定めて米穀類の海上積み出しを禁じ各地で船舶の検査を行った。以降、米の備蓄制度が採られ、福建省などでは地方政府が省外から米の輸入を行った。 また18世紀には南洋海禁が敷かれ、東南アジアへの渡航が禁止される。海外へ移住する中国人いわゆる華人は古くから存在したが、明代後半における稲の品種改良やトウモロコシ・サツマイモ等畑地作物の到来により中国の人口が急増すると、人口圧力に押し出されて華人の海外進出は急増した。清朝は国外や台湾へ自国民の移住は認めていなかったが、渡航先に居住し帰国しない者や商船に便乗して密航する者は絶えず、南洋華僑の流出は続いた。清朝は自国民の海外流出を食い止めようと、1717年に南洋渡航を禁止する。ただし外国船の来航や日本・琉球・ベトナム北部への渡航は引き続き認められており、これは限定的な海禁に止まった。この南洋海禁は福建民衆の生活を脅かすものとされ、1727年に福建地方政府の要請を受け回航期限の制約付きながら海禁は解除される。2年の回航期限を超えて帰国するものは二度と出海を認められなかったが、1742年に期限は3年に緩和され、1754年にはそれも廃止された。 1757年にはヨーロッパ諸国商人との取引を広東1港に限定し、公行(コホン)と呼ばれた特権商人に独占貿易を行わせる広東貿易体制が開始され、アヘン戦争まで続くことになる。
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