馬江海戦
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馬江海戦(ばこうかいせん)または馬尾海戦は、清仏戦争の緒戦の戦い。フランス海軍のアメデ・クールベ提督率いるフランス極東艦隊が、清朝の福建水師と福州船政局を壊滅させた。
- ^ 羅星塔に停泊していた中立国の軍艦: イギリスの砲艦「ヴィジラント」「チャンピオン」「サファイア」、アメリカのコルベット艦エンタープライズ
- ^ 4隻の装甲艦:クールベの旗艦バヤールは、電信基地を守るために馬祖島近くにいた。アタランテはトンキン湾で海賊船退治にあたっていた。基隆にいたラ・ガリソニエールと上海にいたトリオンファンにはそれぞれ合流命令を与えていたが、ラ・ガリソニエールは悪天候のため基隆に足止めされており、トリオンファンは近付いてはいたものの閩江河口の浅瀬を航行できるか不明だった。
- ^ フランス側の資料ではこの船艇が「機雷敷設艇」だったために攻撃開始したとし、清国側の資料では「攻撃延期を求める張佩綸の使者を乗せたボートをフランス側が攻撃艦艇と誤認した」としている。
- ^ 45号水雷艇は結局は拿捕艦船回航員によって放棄され、閩江の真ん中で沈んだ。
- ^ 期待したほど充分に破壊できなかった事は、クールベ自身が後に公式な報告書の中で述べている。
- ^ 田螺湾:福建省福州市馬尾区亭江鎮田螺湾
- ^ 閩安:福建省福州市馬尾区亭江鎮閩安
- ^ 金牌砲台:福建省福州市馬尾区琅岐鎮鳳窩村金牌山
- ^ 長門砲台:福建省福州市連江県琯頭鎮長門村
- ^ 戦死者の中には、フランスの有名な海軍提督エドゥアール・ブエ=ウィヨーム(en)の息子がいた。ブエ=ウィヨーム大尉は砲艦ウィペールの副官として、金牌砲台を砲撃している時に、ウィペールの艦橋で狙撃されて死亡した。
馬江海戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/10 02:07 UTC 版)
8月中旬、両国間で続けられていた和平交渉は決裂、22日にフランス軍はアメデ・クールベ提督の極東艦隊(フランス語版、英語版)に対して福州に集結していた清国福建艦隊(張佩綸提督)との決戦を命令した。1884年8月23日、馬江海戦が起きた。福建艦隊22隻の内、旗艦の一等巡洋艦「揚武」を含む11隻は西洋式の最新艦艇であったが、13隻のフランス海軍の前に約1時間でほとんどが撃沈か大破し、水兵死者数も3,000人を越したと思われる。一方のフランス側は軽微な損害しか受けなかった。戦いの一部始終は中立を宣言していたアメリカ・イギリス両国海軍によって見届けられた。勝ったクールベは福州の海軍工廠(皮肉にもフランス海軍人プロスペ・ジケル(英語版)の技術協力で建設されたもの)に大被害を与え、幾つかの沿岸砲台を破壊した後、戦域を離脱した。福建艦隊敗北に対して清朝内では反仏感情が広がった。イギリス・ドイツ・アメリカは、対フランスの観点から軍事顧問団を清朝に派遣した。
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