台湾攻防戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/10 02:07 UTC 版)
馬江海戦の後、フランス軍は8月5日に清軍に撃退されて失敗した台湾北部の要衝・基隆市占領を再び計画。フランス軍は馬江海戦の勝利と合わせて北部台湾を占領する事で早期に講和を実現しようと考えていた。10月1日にフランス海軍の海兵隊1,800名が上陸、現地守備隊は基隆市から後方の防衛拠点に撤退。上陸したフランス軍の戦力では基隆市より先に進むには心許なく、補給面でも不安があった。10月2日、フランス海軍のレスペス提督は意味のない沿岸砲撃を経て、水兵600名を基隆市後方の淡水へと差し向けた(淡水の戦い(英語版))。しかし、孫開華将軍の清軍約1,000名の反撃を受け、戦闘は膠着した。 1884年末、フランス海軍は、高雄・台南など幾つかの重要な港を海上封鎖した。加えて1885年1月に陸上戦力を4,000名に増強。だが清国側も兵力を2万5,000名に増強していた。1885年1月から始まったフランス軍の攻勢は基隆市周辺の幾つかの小村を占領したのみに終わり、大雨の影響で2月には攻勢は中止された(基隆の戦い(英語版))。
※この「台湾攻防戦」の解説は、「清仏戦争」の解説の一部です。
「台湾攻防戦」を含む「清仏戦争」の記事については、「清仏戦争」の概要を参照ください。
- 台湾攻防戦のページへのリンク