フランス軍の攻勢とは? わかりやすく解説

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フランス軍の攻勢

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 01:16 UTC 版)

普仏戦争」の記事における「フランス軍の攻勢」の解説

1870年7月28日ナポレオン3世メス向けてパリ出発したナポレオン3世新たに編成したライン軍の総司令官となったライン軍は兵力202,448人で、フランス軍動員が進むにつれて兵力は更に増える予定であったマクマオン元帥第1軍(4個歩兵師団)を率いてヴィサンブールへ、カンロベール元帥第6軍(4個歩兵師団)を率いてフランスシャロン=アン=シャンパーニュ向かった第6軍予備兵力の役割担いつつ、ベルギーからのプロイセン軍侵入警戒する役割であったフランス側戦争計画は、戦争前に故アドルフ・ニール元帥描いたもので、ティオンヴィルからトリーア向けて強力な攻勢出て、そこからプロイセンラインラント侵入するという計画であった。この計画は、防御的作戦志向するフロサール将軍Charles Auguste Frossard)やルブラン将軍Bartélemy Lebrun)らによって破棄された。彼らはライン軍をドイツ国付近防御態勢にして、プロイセン攻勢撃退する計画考えていた。オーストリアバイエルンヴュルテンベルクバーデンとともにプロイセンへの(普墺戦争対する)報復戦争に加わると見込まれるから、第1軍プファルツ選帝侯領侵攻し、そこから南ドイツ諸国自由に通過させてもらいつつ、オーストリア・ハンガリー軍と協調して進撃し第6軍必要に応じていずれかの軍への増援に回すつもりであったしかしながら、フロサール将軍計画には早くもほころび見え始めたプロイセン軍動員フランス側予測よりも遥かに急速に進んでいた。また、オーストリア・ハンガリー軍は普墺戦争においてプロイセン相手敗北した痛手からまだ抜け出せておらず、南ドイツ諸国フランス側協力的な立場をとった場合にのみ参戦するという方針で、注意深く事態見守っていた。結局南ドイツ諸国プロイセン側に立ち、フランスに対して軍を動員し始めたため、オーストリア・ハンガリーフランス側立って参戦する構想実施されなかった。

※この「フランス軍の攻勢」の解説は、「普仏戦争」の解説の一部です。
「フランス軍の攻勢」を含む「普仏戦争」の記事については、「普仏戦争」の概要を参照ください。

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