ソンタイ川・バクニンの戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/10 02:07 UTC 版)
「清仏戦争」の記事における「ソンタイ川・バクニンの戦い」の解説
フランス政府が焦る中、清朝は前線から撤兵を拒否。清では攘夷運動が各地で発生し、特に運動が盛んだった広東省では広州などでフランスのみならず欧州商人全体への襲撃が発生、各国が自国住民保護の為に砲艦を派遣した。 清帝国との直接戦争を予期したフランスはドイツ政府に鎮遠・定遠の建造を遅らせるように要請、前線ではトンキンデルタで幾つかの新たな拠点を確保して勢力を拡大。黒旗軍との戦闘がいずれ清朝とも戦うことになると予想したが、早期にトンキン全土を併合すれば既成事実的に相手方が領有を認めるだろうと判断した。トンキンでの新たな攻勢はクールベ提督を総司令官に据え、1883年12月に1万を越す大軍がソンタイ(山西)川に向かって攻撃を開始した。 ソンタイ川の戦い(英語版)は最大の激戦だった。清軍やベトナム人兵士は余り戦いの趨勢に関与せず、3,000人の黒旗軍が主力として戦い、12月14日にフランス軍の攻勢を一旦は撃退した。黒旗軍がクールベ軍の追撃に失敗する中、体勢を立て直したクールベは、大砲による援護を行いながら12月16日にソンタイ川へ二度目の突撃を敢行。同日午後5時、フランス軍外人部隊と海兵部隊の一部がソンタイ川の防衛線を突破して市内に突入、劉永福は残存軍を連れてソンタイ川後方へと撤退した。 フランス軍が数百人の死傷者を出す一方、黒旗軍も半数近い兵士を失った。清軍とベトナム軍(両者が加わればフランス軍を上回る数であった)が戦いに加わらなかった事から劉永福は両国の捨駒にされたと憤慨し、以降の戦いには積極的に関わらなくなった。 1884年3月、フランス軍はシャルル・テオドール・ミロー(英語版)将軍をアメデ・クールベに代わる新たな総司令官にして事態の好転を図った。総戦力は2個旅団に増強された。第1旅団はセネガル総督のルイ・ブリエール・ド・リール(英語版)少将、第2旅団はアルジェリアのイスラム教徒の反乱を鎮圧したオスカル・ド・ネグリエ(英語版)少将が旅団長を務めた。フランス軍は作戦目標を清国広西軍が守備するバクニン(北寧)に定め、攻撃を再開した(バクニンの戦い(英語版))。今回は清軍が主体だったが、士気の低い広西軍は形だけの抵抗で撤退。両軍合わせて3万人(フランス軍1万、清軍2万)の大会戦でありながら、両者の被害は僅かに100人程度に終わっている。黒旗軍が積極的に参加せず、戦力を温存していたこともバクニン占領を容易にし、ミロー将軍はバクニンに残された幾つかのクルップ製の大砲を接収した。
※この「ソンタイ川・バクニンの戦い」の解説は、「清仏戦争」の解説の一部です。
「ソンタイ川・バクニンの戦い」を含む「清仏戦争」の記事については、「清仏戦争」の概要を参照ください。
- ソンタイ川・バクニンの戦いのページへのリンク