ソンゾーニョ社の野望
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「ソンゾーニョ・コンクール」の記事における「ソンゾーニョ社の野望」の解説
ソンゾーニョ社はもともと、1804年にジョヴァンニ・バティスタ・ソンゾーニョによって文学出版社Casa Editrice Sonzognoとして設立され、フランス文学、例えばヴィクトル・ユゴーの翻訳出版などによって斯界では一定の地位を得ていた。また同社の日刊新聞 "Il Secolo" は19世紀中頃、イタリア統一国家形成を支持するラディカルで進歩的な論陣を張り、イタリア最大の発行部数を誇っていた。 しかし創業者の孫であり、劇作家あるいは舞台俳優としても活躍したことがあったエドアルド・ソンゾーニョ(1836年 - 1920年)はこういった単なる文学・時事関連出版社としての地位に飽き足らず、音楽出版部門Casa Musicale Sonzognoを1874年に設立した。 同社はまず、フランス音楽研究の権威として知られるアミントーレ・ガッリ(後にミラノ音楽院の教授)を音楽分野のアドヴァイザーとして据える。また音楽雑誌の分野では、リコルディ社の権威ある週刊誌 "Gazzetta musicale di Milano" に対抗して、隔月刊 "Il teatro illustrato" 誌ならびに "La musica popolare" 誌を刊行した。 しかし、イタリアにおける音楽出版業の主戦場は、やはりオペラの楽譜の出版であった。ソンゾーニョ社が音楽分野に進出した1874年当時、すでに物故した大家ロッシーニ、ベッリーニ、ドニゼッティ、および存命中でありイタリア・オペラ界の頂点として君臨していたヴェルディの版権は全てリコルディ社に、イタリアでの中堅作曲家のそれはリコルディ社とそのライヴァルのルッカ社に占有されるという寡占状態を呈していた。また、ルッカ社は巨費を投じてオーベール、マイアベーアなどフランスのグランド・オペラの既存の主要作、ならびにドイツからはワーグナーの作品版権を購入し、ワーグナー作品を積極的に紹介することでイタリアにおけるワーグナー受容の進展をもたらした(もっともルッカ社は、こうした先行投資負担も一因で経営不振に陥り、1888年にリコルディ社に事実上吸収合併される憂き目に遭う)。 イタリア、フランス、ドイツ既存作品に食い入ることのできないソンゾーニョ社は、アドヴァイザーであるガッリのフランス楽壇に対するコネクションを活かす形で、まずはフランスからオペラ・コミック(グランド・オペラと異なり、台詞を含んだ形式)のイタリアにおける版権を取得する。この企業戦略は1875年にパリで初演されたビゼーの『カルメン』という金の卵として結実した。『カルメン』は1880年にナポリでイタリア初演された後、イタリア半島各地で再演され大好評を博した。同社はこの余勢を駆って、リコルディ、ルッカ両社にまだ囲い込まれていないイタリア人新人作曲家の発掘を試みる。そのための手段がコンクールの開催だった。
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