フランス軍の攻撃と解放
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/03 02:25 UTC 版)
「フランクフルト・ゲットー」の記事における「フランス軍の攻撃と解放」の解説
1792年4月、フランスのジロンド党政権は神聖ローマ帝国・オーストリアのフランス革命への干渉に怒り、オーストリアに対して宣戦を布告した(フランス革命戦争))。帝国自由都市として中立を宣言していたフランクフルト市は、フランス革命軍がやってくると無血開城した。フランス軍司令官は「ユダヤ人にも市民的平等を与える」と宣言していたが、6週間後にはプロイセン軍がフランス軍をフランクフルトから追ったため、ゲットーの解放は実現せずに終わった。しかし1796年7月にフランス軍は再度フランクフルトへ迫った。この時は市内にオーストリア軍が駐留していたのでフランクフルト市は開城を拒否し、1796年7月12日から7月14日にかけてフランス軍の激しい砲火を浴びた。13日夜から14日にかけての砲撃によりゲットーも炎上し、住民の三分の二が住居を失ってしまった(ゲットーの住居の大半は木造でぴったりくっついて並んでいるため延焼した)。しかしこの攻撃が330年にわたったフランクフルト・ゲットーの歴史を終焉させることとなった。 市参事会は住居を失ったユダヤ人に期限付きで別の場所へ住む事を認めた。市参事会はフランス軍から巨額の戦費を要求され、とてもゲットーの再建をする余裕はなかった。しかし市参事会はあくまでゲットー解放には反対の立場であり、いずれはゲットーを再建してユダヤ人をそこに戻すつもりでいた。1802年から1803年にかけて行われたドイツの新しい秩序を決めるためのレーゲンスブルク帝国代表者会議において、フランクフルト市代表者はフランスのナポレオンの使節からゲットーについて手厳しく批判され、ユダヤ人の解放を要求された。 1806年7月の神聖ローマ帝国の解体とともにフランクフルト市は帝国自由都市の地位を失った。フランクフルト市はフランス軍の占領を受け、その占領はナポレオンが敗退する1813年まで続いた。ナポレオンはマインツ大司教カール・テオドール・フォン・ダールベルクをライン同盟盟主・フランクフルト大公に据え、市参事会(ラート)は元老院(セナート)と名称を変えた。ダールベルク大公は、フランス革命の精神に理解を示していた人物だった。ダールベルク大公は1811年1月1日付けで「あらゆる人民の法の前での平等と宗教的信仰の自由な実践」を謳ったナポレオン法典を一般市民法としてフランクフルト大公領に導入した。これによりフランクフルト・ユダヤ人は市民権を認められた。ユダヤ人は居住の自由を獲得し、もはや法的にもゲットー居住を強制されなくなった。同時にこれはユダヤ人税の廃止も意味していた。大幅な収入減になることを恐れたダールベルク大公はその代償としてユダヤ人団体に44万グルデンを自分に支払わせている。 ゲットーから解放されたとはいえ、ユダヤ人には自らの意思で旧ゲットーに留まる者も多かった。貧しいユダヤ人は移住が難しかったため、留まる人が多かった。また裕福であってもキリスト教社会に順応することを拒否したユダヤ人は旧ゲットーに留まった。
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