フランス軍への引渡し
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「マスタードム作戦」の記事における「フランス軍への引渡し」の解説
11月28日、第32旅団はサイゴン北部郊外をフランスへと明け渡した。さらにマウントバッテンの到着によって寺内元帥率いる南方軍の降伏が正式に承認されるとの予想から、兵力の削減計画も建てられていた。サイゴンを訪れたマウントバッテンはグレイシーやルクレールと会談し、第20師団の撤退について協議した。この中で、第32旅団は年内に、第80旅団は師団司令部と共に1946年1月末を目処に撤退する方針が決定した。12月、第32旅団および第80旅団は、日本軍の武装解除および支配領域のフランスへの移譲を段階的に実施した。一方、第100旅団が展開するサイゴン北部では、1月初旬まで戦闘が継続していた。 中部高原南部を巡る戦いでは、ベトミンは多くの集落からフランス軍を排除し、同時に中部高原各地で新たな拠点を確保した。12月中頃にはバンメトートがベトミンによって占領される。この時期の作戦においては、12月11日に英空軍第273飛行隊(英語版)所属のスピットファイア戦闘機が行った航空支援が、ベトミンに対する唯一の有効な打撃だった。 1946年1月3日、この紛争における最も大規模な戦闘がイギリス軍とベトミンの間で起こった。900名ほどのベトミン部隊がビエンホアに駐屯していた第13辺境軍ライフル連隊第14大隊を襲撃したのである。戦闘は夜通しで行われ、100名ほどのベトミンが殺害されたが、イギリス兵およびインド兵の被害は皆無であった。ほとんどのベトミンは機関銃陣地からの十字砲火によって殺害されていた。 1月中頃から、ベトミンはイギリス、フランス、日本軍部隊に対する大規模な攻撃を控え、代わりに待ち伏せやヒット・アンド・ラン攻撃、暗殺といったゲリラ戦術を展開するようになり、各国軍は哨戒活動の強化を強いられることとなった。この紛争は最初の近代的不正規戦争とも評され、ベトミンは長期作戦を展開しうる十分な戦力を有していたものの、一方で対峙した各国正規軍もアジア方面のジャングルや田園地帯での作戦活動に熟練していたために勝利を収めることができなかったとされる。 1月末までに、第80旅団はインドシナ戦線の指揮権をフランス軍へ明け渡し、また第100旅団もサイゴンまで後退した。グレイシーはルクレールに指揮権を引き継ぎ、28日にインドシナを離れた。第100旅団は権限移譲後もフランス軍の支援を目的に駐留していたが、政治的な理由から中止され、2月8日から9日の2日間をかけて撤退した。第20師団所属部隊の大部分は2月中に撤退した。武装解除された54,000人以上の日本兵は、サンジャック捕虜収容所にて帰国を待つこととなった。英印軍のうち、第12辺境軍ライフル連隊第9大隊はこのサンジャック収容所の警備と送還業務のために、第8パンジャブ連隊(英語版)第2大隊はサイゴン警備のために残留し、3月末まで任務を継続した。また、第8パンジャブ連隊第2大隊所属の中隊を含む小規模な混成部隊は、連合国による占領統治の一環として5月15日までサイゴンに残されていた。 イギリス空軍は1945年末から1946年2月にかけて順次撤退した。既にフランス軍への引き継ぎが進んでいたことに加え、予備の日本軍作戦機が枯渇しつつあったことから、グレムリン・タスクフォースはイギリス空軍部隊の撤退支援を完了した後に解散した。グレムリン・タスクフォースは解散までに2,000回以上の飛行任務を遂行した。
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