フランス軍の逃走と回復
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/07/13 16:46 UTC 版)
「バイレンの戦い」の記事における「フランス軍の逃走と回復」の解説
この戦いはフランス軍に屈辱を与えたほか、相前後してフランス軍は第一次サラゴサ包囲戦(英語版)、バレンシアの戦い(英語版)、エル・ブルークの戦い(英語版)、サンタンデールなどで連戦連敗した。さらにスペインが国を挙げて動員してフランスと戦おうとしたため、フランス軍はパニックして混乱に陥った。2万もの軍勢が突如失われたことで、ナポレオンの占領軍が急に力を失った。サヴァリの助言でジョセフは敵対的なマドリードから逃亡、ベシエールとモンセーも合流した。彼らはフランス軍をマドリードから北へ撤退させ、ブルゴスも越えて全軍撤退の形となった。撤退は鉄壁な防御を確保できるエブロ川北岸まで続いた。ビトリアの暫定司令部でジョセフは弟に「私は再度スペイン人支持者は一人もいないことを伝えます。全国が憤慨しており、戦うことを決意しています。」と書き、ナポレオンは激怒して、エブロ川渡河は「スペイン脱出に等しい」と言った。 11月、ナポレオンはフランス軍を率いてピレネー山脈を越え、一連の戦闘でスペイン軍に大打撃を与え、1か月でマドリードを降伏させた。運命はバイレンの勝利者に厳しかった。カスターニョスは1808年11月のトゥデラの戦い(英語版)でランヌ元帥に潰され、レディングは1809年のバルスの戦い(英語版)で落馬してフランス騎兵に殺された。スールト元帥は翌年アンダルシアの大半を侵略して回り、1810年1月21日にバイレンの聖堂で帝国の鷲を奪回した。このようにして、カディスのみがスペインに死守され、侵略者をスペインから追い出すのに長い歳月がかかった。
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