フランス軍の対応
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「ヴァールブルクの戦い」の記事における「フランス軍の対応」の解説
ムイ中将は連合軍が付近にいることを知っていたが、朝霧のせいで土地を見渡せなかった。そのため、より明確に状況をつかむべくカストリー侯爵中将をいくつかの擲弾兵・猟兵連隊、竜騎兵2個連隊そして「フィッシャー義勇部隊」とともにデーゼンベルクへ差し向けた。カストリー侯はそこでアウグスト・クリスティアン・フォン・ビューロウ(ドイツ語版)少佐率いる「イギリス人軍団」に遭遇するが、同隊は急速にレーゼベックへと退避している。午前9時30分頃に霧が晴れるとカストリー侯、そして馳せ参じたムイ伯は接近してくる敵の戦列に遂に気づく。ムイ伯はデーゼンベルクに1個の後衛部隊を残し、「フィッシャー義勇部隊」にヴァールブルクを占領するよう命じた。最終的には指揮下の部隊に、戦列を組むよう命令を下す。攻撃は東側から来ると思われたので、陣形もそちらに向いていた。歩兵4個旅団と砲兵2個大隊がセギュール侯フィリップ・アンリの指揮下、ヴァールブルクの西方の高地に陣取る。左翼はオッセンドルフの全面で鉤状に曲がっていた。その右側ではモープー侯率いる歩兵2個旅団が隣接していた。リュッツェルブルクとドーヴェの諸将が率いる騎兵は攻撃に適した地形が広がる中央に展開した。騎兵の後方で、ムイ伯は「ルエルグ」旅団を予備として留め置く。輜重部隊は念のため、ディーメル川の南岸へ移された。 ムイ中将指揮下のフランス軍の戦闘序列上級指揮官下級指揮官連隊名番号連隊長所属国兵力備考モープー侯ルイ・シャルル・アレクサンドル 「ラ・トゥール・デュ・パン」歩兵連隊 第7 フランス 歩兵 4個大隊 第1列 モープー侯ルイ・シャルル・アレクサンドル 「トゥレーヌ」歩兵連隊 第18 フランス 歩兵 2個大隊 第1列 モープー侯ルイ・シャルル・アレクサンドル 「アンギャン」歩兵連隊 第100 フランス 歩兵 2個大隊 第1列 セギュール侯フィリップ・アンリ 「プランタ」歩兵連隊 第63 フランス (スイス人部隊(フランス語版)) 歩兵 2個大隊 第1列 セギュール侯フィリップ・アンリ 「クールテン」歩兵連隊 第91 フランス (スイス人部隊) 歩兵 2個大隊 第1列 セギュール侯フィリップ・アンリ 「ルシュマン」歩兵連隊 第113 フランス (スイス人部隊) 歩兵 2個大隊 第1列 セギュール侯フィリップ・アンリ 「レディング」歩兵連隊 第51 フランス (スイス人部隊) 歩兵 2個大隊 第1列 セギュール侯フィリップ・アンリ 「ラ・クーロンヌ」歩兵連隊 第28 フランス 歩兵 2個大隊 第1列 セギュール侯フィリップ・アンリ 「オーモン=マザラン」歩兵連隊 No. 54 フランス 歩兵 2個大隊 第1列 リュッツェルブルク 王立外人騎兵連隊(フランス語版) K 6 C・デュ・シャボ フランス 騎兵 2個中隊 第1列 リュッツェルブルク 「サン・アルデゴンド」騎兵連隊 フランス 騎兵 2個中隊 第1列 リュッツェルブルク 「ダルシアーク」騎兵連隊 フランス 騎兵 2個中隊 第1列 リュッツェルブルク 「王妃」騎兵連隊(フランス語版) フランス 騎兵 2個中隊 第1列 リュッツェルブルク 「クリュソル」騎兵連隊 フランス 騎兵 2個中隊 第1列 リュッツェルブルク 「バランクール」騎兵連隊 フランス 騎兵 2個中隊 第1列 ルイ・ニコラ・ドーヴェ 「ブルボン」竜騎兵連隊 フランス 騎兵 2個中隊 第1列 ルイ・ニコラ・ドーヴェ 「モンカルム」騎兵連隊 フランス 騎兵 2個中隊 第1列 ルイ・ニコラ・ドーヴェ 「ボーヴィリエ」騎兵連隊 フランス 騎兵 2個中隊 第1列 ルイ・ニコラ・ドーヴェ 王立「ピエモン」騎兵連隊(フランス語版) フランス 騎兵 2個中隊 第1列 ルイ・ニコラ・ドーヴェ 「デスカー」騎兵連隊 フランス 騎兵 2個中隊 第1列 ルイ・ニコラ・ドーヴェ 「デスパンシャル」騎兵連隊 フランス 騎兵 2個中隊 第1列 フロンサック公ルイ・アントワーヌ・ソフィー・デュ・ヴィニェロ・ドゥ・プレシ 「ティオンジュ」竜騎兵連隊 D XIV V・デュ・ティオンジュ フランス 騎兵 2個中隊 第1列 フロンサック公ルイ・アントワーヌ・ソフィー・デュ・ヴィニェロ・ドゥ・プレシ 王立竜騎兵連隊(フランス語版) D III C・デュ・ラ・ブラッシ フランス 騎兵 2個中隊 第1列 カストリー侯シャルル・ウジェーヌ・ガブリエル・ド・ラ・クロワ 「フィッシャー」猟兵連隊 フィッシャー(英語版) フランス 義勇部隊 4個中隊 分遣された。 セギュール侯フィリップ・アンリ 「ルエルグ」歩兵連隊 第42 フランス 歩兵 2個大隊 第2列 セギュール侯フィリップ・アンリ 「ロアン=ロシュフォール」歩兵連隊 第64 フランス 歩兵 2個大隊 第2列 王立砲兵連隊 第47 フランス 砲兵 2個大隊 分遣された。
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フランス軍の対応
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フランス軍左翼の第1集団を率いるギュルシー伯爵中将(1715年-1767年)はシュペルケン師団の前進に気付いた時、ハーレン方面への攻撃を準備していた。伯はハーレンを攻める代わりに、自身の側面に展開するイギリス及びハノーファーの部隊を攻撃することにする。そして指揮下の第1集団から「コンデ」旅団と「アキテーヌ」旅団、総勢8個大隊を転進させ、シュペルケン大将率いる部隊を攻撃させた。シュペルケン大将は率いていた第2集団から3個大隊を抽出し、その攻撃に対応しなくてはならなかったが、これらの大隊も長くは耐えられなかった。 今やシュペルケン師団は包囲されそうになっていた。ブラウンシュヴァイク公フェルディナントはこの危機に気付き、シュペルケン大将を支援するため即座に対策を講じた。連合軍の戦闘序列に加わっていなかったシェーレ(ドイツ語版)少将指揮下の5個大隊を、シュペルケン師団の右翼に差し向けたのである。しかしその展開には時間を要することが見込まれたため、ジョージ・サックヴィル卿(1716年-1785年)が騎兵をもって攻撃を敢行し、フランス軍の両旅団を撃退することとされた。しかし、指揮下の部隊がまだ戦場に到着していなかったサックヴィル卿は、攻撃に移行しなかった。そのため、さしあたりシュペルケンの部隊を支援できたのは、ハーレンの製粉所の付近に進出していたハーゼ少佐指揮下のハノーファー重砲兵旅団だけであった。 この危険な局面でコンタード侯は、すでに激しい砲撃に晒され2個歩兵旅団から攻撃を受けているシュペルケン師団を完全に粉砕するため、中央から最後の騎兵集団を投入することにした。この集団は「ジャンダルム」及び「カラビニエ」連隊、総勢騎兵18個中隊(約2,000名)から構成されるフランス貴族伝統の最精鋭部隊であり、指揮官はポヤンヌ侯であった。これらの騎兵はシュペルケンの第1集団を正面から攻撃した他、側面と背後にも回る。イギリス及びハノーファーの第3集団は向きを変え、包囲攻撃から身を守らなければならなかった。「ジャンダルム」と「カラビニエ」両連隊の攻撃は数年後、フランス側の報告で下記のように伝わっている。 「敵歩兵の射撃はその戦列の中央から始まり、前進しながらその両翼まで広がり、我々が15歩の距離まで迫った時、馬は左右に身を投げ出して回避を試みた。この巨大な重圧の力は並外れていた。騎兵は馬を制御することができなくなり、人馬はどの中隊においても多くて8人から10人しか鞍に踏み止まれなかったほど激しく入り乱れた。これらはすぐに運ばれていき、何人かの者たちは敵の戦列に達することができたが、何らかの効果を挙げるには数が少な過ぎた。敵の銃火に殺された者は少なかったが、多くの者は打撲や四肢の骨折・脱臼に苦しみ、他の者は落馬してから窒息するか馬蹄に踏み潰された。」- ムタン・デ・ラ・バルム少佐 このような大損害にも拘わらず、この攻撃はシュペルケンの諸大隊を大変な苦境に追い込む。ハノーファー近衛連隊とイギリス第23連隊の大隊は、突破されるほどであった。しかしこれらの大隊が揺らいだ時、ヴトギナウ(ドイツ語版)中将(1698年-1776年)率いるヘッセン人師団を主力とする救援が到着した。ハノーファーの「ヴァンゲンハイム」連隊とヘッセン近衛連隊に所属する同師団の2個大隊は「ジャンダルム」連隊の側面に銃火を浴びせ、これを撃退した。フランス軍の騎兵隊は兵力の半数以上を失ったのである。 「コンデ」と「アキテーヌ」の両旅団はすでに、シュペルケン大将に対する攻撃の間に連合軍の砲撃によって大きな損害を被っていた。騎兵の攻撃が頓挫すると、逃走する騎兵は各部隊の配置を混乱に巻き込み、ともに潰走した。左翼の崩壊を食い止めるため、ザクセン軍の第2集団を率いていたザクセン公子クサーヴァーは「クアプリンツェッスィン」及び「ゴータ」連隊から3個大隊を、攻撃を再開したシュペルケン師団の側面に回す。ザクセン軍の他の大隊は再びそこで戦列を立て直すべく、その左側から北西を向いて彼らに続いた。。
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フランス軍の対応
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「ポンヴァランの戦い」の記事における「フランス軍の対応」の解説
フランス王シャルル5世は麾下で最も有能な騎士ベルトラン・デュ・ゲクランを総司令官に任命し、ノールズ軍の撃破を命じた。11月に入り、ゲクランはカーンの町でオリヴィエ・ド・クリッソン率いるブルターニュ兵などの援軍と合流し、その兵力は4,000となった。また、1,200人の別動隊がシャテルローの町に結集し、主力が北からノールズ軍に進撃したのと連動して、東から敵の背後に向かった。フランス軍の接近に気付いたノールズは包囲される前にブルターニュに後退しようとしたが、主戦論を唱える配下の諸将から猛反対に遭った。結果的にイングランド軍は分割されることになった。ノールズは自らの手兵を含む部隊を率いて西方のブルターニュに撤退し、残りの4,000の部隊は三つに分かれてロワール渓谷に残った。3部隊のうち一つはミンスターワースが率いた。
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