フランス軍の対応とは? わかりやすく解説

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フランス軍の対応

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/02/15 14:40 UTC 版)

ヴァールブルクの戦い」の記事における「フランス軍の対応」の解説

ムイ中将連合軍付近にいることを知っていたが、朝霧のせいで土地見渡せなかった。そのため、より明確に状況をつかむべくカストリー侯爵中将いくつかの擲弾兵猟兵連隊竜騎兵2個連隊そして「フィッシャー義勇部隊とともにデーゼンベルクへ差し向けた。カストリー侯はそこでアウグスト・クリスティアン・フォン・ビューロウ(ドイツ語版少佐率いる「イギリス人軍団」に遭遇するが、同隊は急速にレーゼベックへと退避している。午前9時30分頃に晴れるとカストリー侯、そして馳せ参じたムイ伯は接近してくる敵の戦列遂に気づくムイ伯はデーゼンベルクに1個の後衛部隊残し、「フィッシャー義勇部隊」にヴァールブルク占領するよう命じた最終的に指揮下の部隊に、戦列を組むよう命令を下す攻撃東側から来ると思われたので、陣形もそちらに向いていた。歩兵4個旅団砲兵2個大隊セギュール侯フィリップ・アンリの指揮下、ヴァールブルク西方高地陣取る左翼はオッセンドルフの全面鉤状曲がっていた。その右側ではモープー侯率い歩兵2個旅団隣接していた。リュッツェルブルクとドーヴェ諸将率い騎兵攻撃適した地形広がる中央展開した騎兵後方で、ムイ伯は「ルエルグ」旅団予備として留め置く輜重部隊念のため、ディーメル川の南岸移された。 ムイ中将指揮下のフランス軍戦闘序列上級指揮官下級指揮官連隊番号連隊長所属国兵力備考モープー侯ルイ・シャルル・アレクサンドル 「ラ・トゥール・デュ・パン歩兵連隊 第7 フランス 歩兵 4個大隊 第1列 モープー侯ルイ・シャルル・アレクサンドル 「トゥレーヌ歩兵連隊18 フランス 歩兵 2個大隊 第1列 モープー侯ルイ・シャルル・アレクサンドル 「アンギャン」歩兵連隊100 フランス 歩兵 2個大隊 第1列 セギュール侯フィリップ・アンリ 「プランタ歩兵連隊63 フランススイス人部隊(フランス語版)) 歩兵 2個大隊 第1列 セギュール侯フィリップ・アンリ 「クールテン」歩兵連隊91 フランススイス人部隊) 歩兵 2個大隊 第1列 セギュール侯フィリップ・アンリ 「ルシュマン」歩兵連隊113 フランススイス人部隊) 歩兵 2個大隊 第1列 セギュール侯フィリップ・アンリ 「レディング歩兵連隊51 フランススイス人部隊) 歩兵 2個大隊 第1列 セギュール侯フィリップ・アンリ 「ラ・クーロンヌ」歩兵連隊28 フランス 歩兵 2個大隊 第1列 セギュール侯フィリップ・アンリ 「オーモンマザラン歩兵連隊 No. 54 フランス 歩兵 2個大隊 第1列 リュッツェルブルク 王立外人騎兵連隊フランス語版K 6 C・デュ・シャボ フランス 騎兵 2個中隊 第1列 リュッツェルブルク 「サン・アルデゴンド」騎兵連隊 フランス 騎兵 2個中隊 第1列 リュッツェルブルク 「ダルシアーク」騎兵連隊 フランス 騎兵 2個中隊 第1列 リュッツェルブルク 「王妃騎兵連隊フランス語版フランス 騎兵 2個中隊 第1列 リュッツェルブルク 「クリュソル」騎兵連隊 フランス 騎兵 2個中隊 第1列 リュッツェルブルク 「バランクール」騎兵連隊 フランス 騎兵 2個中隊 第1列 ルイ・ニコラ・ドーヴェ 「ブルボン竜騎兵連隊 フランス 騎兵 2個中隊 第1列 ルイ・ニコラ・ドーヴェ 「モンカルム騎兵連隊 フランス 騎兵 2個中隊 第1列 ルイ・ニコラ・ドーヴェ 「ボーヴィリエ」騎兵連隊 フランス 騎兵 2個中隊 第1列 ルイ・ニコラ・ドーヴェ 王立ピエモン騎兵連隊フランス語版フランス 騎兵 2個中隊 第1列 ルイ・ニコラ・ドーヴェ 「デスカー」騎兵連隊 フランス 騎兵 2個中隊 第1列 ルイ・ニコラ・ドーヴェ 「デスパンシャル」騎兵連隊 フランス 騎兵 2個中隊 第1列 フロンサック公ルイ・アントワーヌ・ソフィー・デュ・ヴィニェロ・ドゥ・プレシ 「ティオンジュ」竜騎兵連隊 D XIV V・デュ・ティオンジュ フランス 騎兵 2個中隊 第1列 フロンサック公ルイ・アントワーヌ・ソフィー・デュ・ヴィニェロ・ドゥ・プレシ 王立竜騎兵連隊フランス語版) D III C・デュ・ラ・ブラッシ フランス 騎兵 2個中隊 第1列 カストリー侯シャルル・ウジェーヌ・ガブリエル・ド・ラ・クロワ 「フィッシャー猟兵連隊 フィッシャー英語版フランス 義勇部隊 4個中分遣された。 セギュール侯フィリップ・アンリ 「ルエルグ」歩兵連隊42 フランス 歩兵 2個大隊 第2列 セギュール侯フィリップ・アンリ 「ロアンロシュフォール歩兵連隊64 フランス 歩兵 2個大隊 第2列 王立砲兵連隊47 フランス 砲兵 2個大隊 分遣された。

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フランス軍の対応

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/15 01:04 UTC 版)

ミンデンの戦い」の記事における「フランス軍の対応」の解説

フランス軍左翼第1集団率いるギュルシー伯爵中将1715年-1767年)はシュペルケン師団前進気付いた時、ハーレン方面への攻撃準備していた。伯はハーレン攻め代わりに自身側面展開するイギリス及びハノーファー部隊攻撃することにする。そして指揮下の第1集団から「コンデ旅団と「アキテーヌ旅団総勢8個大隊転進させ、シュペルケン大将率い部隊攻撃させた。シュペルケン大将率いていた第2集団から3個大隊抽出し、その攻撃対応しなくてはならなかったが、これらの大隊長くは耐えられなかった。 今やシュペルケン師団包囲されそうになっていた。ブラウンシュヴァイク公フェルディナントはこの危機気付きシュペルケン大将支援するため即座に対策講じた連合軍戦闘序列加わっていなかったシェーレドイツ語版少将指揮下の5個大隊を、シュペルケン師団右翼差し向けたのである。しかしその展開には時間要することが見込まれたため、ジョージ・サックヴィル卿(1716年-1785年)が騎兵をもって攻撃敢行し、フランス軍の両旅団撃退することとされた。しかし、指揮下の部隊がまだ戦場到着していなかったサックヴィル卿は、攻撃移行しなかった。そのため、さしあたりシュペルケン部隊支援できたのは、ハーレン製粉所の付近に進出していたハーゼ少佐指揮下のハノーファー重砲旅団だけであった。 この危険な局面でコンタード侯は、すでに激し砲撃晒され2個歩兵旅団から攻撃受けているシュペルケン師団を完全に粉砕するため、中央から最後騎兵集団投入することにした。この集団は「ジャンダルム」及び「カラビニエ連隊総勢騎兵18個中隊(約2,000名)から構成されるフランス貴族伝統の最精鋭部隊であり、指揮官はポヤンヌ侯であった。これらの騎兵シュペルケン第1集団正面から攻撃した他、側面背後にも回る。イギリス及びハノーファー第3集団は向き変え包囲攻撃から身を守らなければならなかった。「ジャンダルム」と「カラビニエ」両連隊攻撃数年後フランス側報告下記のように伝わっている。 「敵歩兵射撃はその戦列中央から始まり前進しながらその両翼まで広がり、我々が15歩の距離まで迫った時、馬は左右に身を投げ出して回避試みた。この巨大な重圧の力は並外れていた。騎兵は馬を制御することができなくなり人馬はどの中隊においても多くて8人から10人しか鞍に踏み止まれなかったほど激しく入り乱れた。これらはすぐに運ばれていき、何人かの者たちは敵の戦列達することができたが、何らかの効果挙げるには数が少な過ぎた。敵の銃火殺された者は少なかったが、多くの者は打撲四肢骨折脱臼苦しみ、他の者は落馬してから窒息する馬蹄踏み潰された。」- ムタン・デ・ラ・バルム少佐 このような大損害に拘わらず、この攻撃シュペルケンの諸大隊大変な苦境追い込むハノーファー近衛連隊イギリス23連隊大隊は、突破されるほどであった。しかしこれらの大隊揺らいだ時、ヴトギナウ(ドイツ語版中将1698年-1776年率いヘッセン師団主力とする救援到着したハノーファーの「ヴァンゲンハイム」連隊ヘッセン近衛連隊所属する師団の2個大隊は「ジャンダルム連隊側面銃火浴びせ、これを撃退したフランス軍騎兵隊兵力半数以上を失ったのである。 「コンデ」と「アキテーヌ」の両旅団はすでに、シュペルケン大将対す攻撃の間に連合軍砲撃によって大きな損害被っていた。騎兵攻撃頓挫すると、逃走する騎兵各部隊配置混乱巻き込み、ともに潰走した。左翼崩壊食い止めるため、ザクセン軍の第2集団率いていたザクセン公クサーヴァーは「クアプリンツェッスィン」及び「ゴータ連隊から3個大隊を、攻撃再開したシュペルケン師団側面に回す。ザクセン軍の他の大隊は再びそこで戦列立て直すべく、その左側から北西向いて彼らに続いた。。

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フランス軍の対応

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/07 09:18 UTC 版)

ポンヴァランの戦い」の記事における「フランス軍の対応」の解説

フランス王シャルル5世麾下で最も有能な騎士ベルトラン・デュ・ゲクラン総司令官任命しノールズ軍の撃破命じた11月入り、ゲクランはカーンの町でオリヴィエ・ド・クリッソン率いブルターニュ兵などの援軍合流し、その兵力は4,000となったまた、1,200人の別動隊シャテルローの町に結集し主力北からノールズ軍に進撃したのと連動して、東から敵の背後向かったフランス軍接近気付いたノールズ包囲される前にブルターニュ後退しようとしたが、主戦論唱える配下諸将から猛反対遭った結果的にイングランド軍は分割されることになったノールズは自らの手兵を含む部隊率いて西方ブルターニュ撤退し残りの4,000部隊三つ分かれてロワール渓谷残った3部隊のうち一つはミンスターワースが率いた

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