主戦論
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/30 08:42 UTC 版)
1868年、鳥羽・伏見の戦いを機に戊辰戦争が勃発すると、仙台藩には会津藩追討の命が下った。仙台藩ではこれに対処するため、朝廷への建白書が起草され、磐渓がこの草稿を書いた。既に東征軍が出発していたため、建白書は時期遅しとして討幕派の藩参政・三好監物の抑止にあい朝廷に届けられずに終わったが、これが東京の「中外新聞」に掲載され、薩長を憤慨させた。旧知の仲である山内容堂はこの建白書を見ると磐渓が書いたものに違いないと断定し、これが後の幽閉につながっている。 閏4月11日、白石に奥羽14藩の代表が集まり、盟約書(白石盟約)が審議されて奥羽列藩同盟が発足した。 仙台藩が奥羽列藩同盟の盟主になると、論客として各藩の参謀と関わりを持った。星恂太郎率いる仙台藩の洋式歩兵隊に「額兵隊」という名を与えたのも磐渓である。なお、磐渓の影響を受けた星も以前は過激な攘夷論者で、開国論を唱える磐渓と但木土佐の暗殺を謀ったところ、逆にその愚を諭され、脱藩したという逸話がある。
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