アンリ・リビエールの探検
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/10 02:07 UTC 版)
「清仏戦争」の記事における「アンリ・リビエールの探検」の解説
フランスが北ベトナム侵略に突入したのは、海軍士官アンリ・リビエール(英語版)の行動によってであった。1881年末、現地のフランス商人に対するベトナムの反発を調査するように命じられたアンリは、小規模の軍勢を連れてハノイ(河内)に進み、そこで上官命令を無視して独断で阮朝軍のハノイ砦を占領。ハノイ砦は程無く阮朝軍に返還されたが、リビエールの占領行為は阮朝とその庇護者である清朝に警戒感を与えた。しかし阮朝は弱体であり、フランス軍を押しのける力はなかった。 既に崩壊しつつあった阮朝軍に代わってフランスに対峙したのは黒旗軍だった。1873年、黒旗軍はコーチシナ駐屯軍の士官フランシス・ガルニエの部隊を壊滅させたことがある。ガルニエはリビエールと同じ様に上官命令を無視して北ベトナムに兵を向け、ハノイ砦で黒旗軍の部隊に襲撃され敗北した。この戦いでガルニエも戦死し、フランスはベトナムでの敗北を隠蔽しようとした。 また阮朝は宗主国である清朝に支援を要請した。庇護国に進出するフランスに不快感を抱いていた清朝は表面上敵対していた黒旗軍に武器や資金を援助し、トンキン(東京)での反フランスの戦いを後援し、フランスのベトナム進出に対して警告した。
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