アンリ・リヴィエールの影絵芝居
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/07 14:57 UTC 版)
「ル・シャ・ノワール」の記事における「アンリ・リヴィエールの影絵芝居」の解説
こうして「ル・シャ・ノワール」は商業的な成功を収め、移転後1897年にサリスが死去するまでの12年間、総合芸術の実験室であり続けた。なかでも重要なのは画家アンリ・リヴィエール (1864-1951) が1886年に創設した「テアートル・ドンブル(影絵芝居)」である。当時は提灯や絹のパネル、竹の椅子といった日本趣味の内装で知られ、『ラ・ランテルヌ・ジャポネーズ(日本の提灯)』という文芸新聞を発行していたキャバレー「ル・ディヴァン・ジャポネ」、1887年に画家フィンセント・ファン・ゴッホが描いた、背景に浮世絵のある『タンギー爺さん』などに見られるようにジャポニスムが流行していたが、アンリ・リヴィエールもジャポニスムに深い影響を受けた画家であり、日本や中国の影絵に発想を得て「影絵芝居」を創設。『聖アントワーヌの誘惑』、『星への歩み』、『叙事詩』など数々の影絵作品を制作し、「ル・シャ・ノワール」で上映した。亜鉛板を使った当時の影絵には高い技術が要求され、リヴィエールの劇場では12人の機械技師が働いていたが、ここで上映された影絵芝居は既に後に開発される映画の特徴(動き、音声、色彩など)を備えたものであり、音楽はジョルジュ・フラジュロールが担当した。 モンマルトル美術館では、2012年9月13日から2013年6月2日まで企画展「『ル・シャ・ノワール』を巡って ― モンマルトルの芸術と娯楽 1880-1910」が開催された際に、「アンリ・リヴィエールの影絵」と題する特別展示室を設けて、影絵を上映し、当時の技術について紹介した(動画)。 スタンランが『ルドルフ・サリスの「ル・シャ・ノワール」の巡業』のポスターを制作したのは1896年のことである。この1年後の1897年にサリスが死去し、「祝祭の間」で影絵芝居の最後の上映会が行われた後、「ル・シャ・ノワール」は閉店した。
※この「アンリ・リヴィエールの影絵芝居」の解説は、「ル・シャ・ノワール」の解説の一部です。
「アンリ・リヴィエールの影絵芝居」を含む「ル・シャ・ノワール」の記事については、「ル・シャ・ノワール」の概要を参照ください。
- アンリ・リヴィエールの影絵芝居のページへのリンク