ジャポニスム
【英】:JAPONISME
【別称】:ジャポニズム
19世紀後半から20世紀初頭にかけて、日本の美術工芸品が、西洋の美術、工芸、装飾などの幅広い分野に影響を与えた現象。および西洋の美術家たちが日本美術の特質を創造的に活かしていこうとする態度。19世紀後半、開国を機に西洋との交流が深まり、日本から陶磁器や漆器、各種の調度品、浮世絵などの美術工芸品が、大量に西洋に伝わっていった。また、ヨーロッパ各地で開かれた万国博覧会を通じて日本の文化は欧米の人々の間で関心を呼び、一種の日本ブームが到来する。日本の美術工芸品に見られる独特の色彩や構図、平面性、装飾性、あるいは自然や身の回りの光景から生まれたモチーフは、印象派、ナビ派、アール・ヌーヴォー などの美術やデザインの分野に多大な影響を与えた。さらにこの日本好みの風潮は、服飾や日常的な生活様式にいたるまで広がった。この現象には、斬新さへの驚きと少なからぬ好奇の目を持って、日本的な図像や雰囲気を取り入れた異国趣味的な側面も強く見られ、ジャポネズリー(日本趣味)と呼ばれることも多い。これは、18世紀の中国ブーム、シノワズリー(中国趣味)を思い起こさせる。しかし、近年では様々な研究がすすみ、日本美術の持つ造形性、技法、主題、モチーフ等の独自性や、日本の生活様式、世界観に深く触発された現象としてジャポニスムと呼ぶことが定着してきている。
ジャポニスム
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/04/28 01:35 UTC 版)
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ジャポニスム(英: Japonism)は、19世紀後半にヨーロッパで流行した日本趣味のこと。英語ではジャポニズムと表記するが、本稿では仏語の「ジャポニスム」に表記を統一する。
概要
19世紀中頃の万国博覧会(国際博覧会)への出品などをきっかけに、日本美術(浮世絵、琳派、工芸品など)が注目され、ヨーロッパの芸術家に大きな影響を与えた。1870年には、フランス美術界においてジャポニスムの影響はすでに顕著であり[1]、1872年に美術評論家のフィリップ・ビュルティがその流行を「ジャポニスム」と呼んで解説[2]、1876年には"japonisme"という単語がフランスの辞書に登場した[3]。19世紀末から20世紀初頭にかけての日本ブームについて、フランスの翻訳家ルイ・ファビュレは、「日本は巨人のような大股で世界に登場し、今日世界中の眼がこの国に注がれている」と記している[4]。
ジャポニスムは画家を初めとした芸術家に多大な影響を与えた。たとえば、ゴッホによる『名所江戸百景』の模写や、クロード・モネの「ラ・ジャポネーズ」、ドガを初めとした画家の色彩感覚にも影響を与えた。
なお現在も製造、販売されているフランスのかばんメーカーのルイ・ヴィトンの「ダミエ」キャンバスや「モノグラム」キャンバスも、当時のゴシック趣味、アール・ヌーヴォーの影響のほか、市松模様や家紋の影響もかかわっているとされる。
歴史
ジャポネズリーの時代

ジャポネズリー(仏: Japonaiserie)とは日本趣味のことであり、ジャポニスムの前段階として解釈されている。
嘉永年間、黒船来航により多くの商船が西洋から押し寄せた。当時の写真技術と印刷技術により、日本の様子が西洋に広く知られるようになる。他の美術工芸品とともに浮世絵という版画が欧米でまたたく間に人気になった。
ジャポニスムの第一段階は日本の美術品、特に浮世絵版画の熱狂的な収集から始まる。その最初の例はフランスのパリであった。1856年ごろ、フランスのエッチング画家フェリックス・ブラックモンが、摺師の仕事場で『北斎漫画』を目にした[注 1]。1860年から1861年にかけて出版された日本についての本の中では、浮世絵がモノクロで紹介されている。
シャルル・ボードレールは、1861年に手紙を書いている。
- 「かなり前になりますが、私は1箱の日本の工芸品を受け取り、それらを友人たちと分け合いました…」
その翌年にはラ・ポルト・シノワーズ(「中国の門」、La Porte Chinoise)という浮世絵を含むいろいろな日本製品を売る店がリヴォリ通りというパリで最もおしゃれな商店街に開店した。
1871年には、カミーユ・サン=サーンスが作曲し、ルイ・ガレが台本を書いたオペラ『黄色い王女』(La Princesse jaune)が公開されたが、その物語はオランダ人の少女が芸術家のボーイフレンドが熱中している浮世絵に嫉妬するというものだった。
ブラックモンによる浮世絵の古典的名作の最初の発見にもかかわらず、当初ヨーロッパに輸入された大半の浮世絵は、同時代である1860-1870年代の絵師によるものだった。それ以前の巨匠たちが紹介され、評価されるのはもう少しあとのことになる。また、同時期のアメリカのインテリたちは、雪舟や周文などのような日本の洗練された宗教的、国家的遺産とは区別されるべきものだと主張した。
イギリスにおけるジャポニスム
イギリスでは、1862年のロンドン万国博覧会により日本の陶器や置物など日本文化への関心が高まった。美術界では、ロセッティ・サークル(画家のロセッティを中心としたラファエル前派のグループ)の人々を中心に日本熱が起こった[5]。明治になると日本の軽業師が多数海外で興行するようになり、イギリスでも1870年代にはすでに手品や曲芸を見せる興行が打たれていた。1873年のウィーン万国博覧会後、そこで展示されていた建物と庭園がアレクサンドラ・パレス&パーク (Alexandra Palace and Park) に移築され、日本村Japanese Villageと呼ばれた。1885年にはロンドンのナイツブリッジにジャパニーズ・ヴィレッジ(日本村)と呼ばれる日本の物品を販売したり見世物をしたりする小屋ができ、同じころサヴォイ劇場では、ウィリアム・ギルバートとアーサー・サリヴァンによるオペレッタ『ミカド』が大当たりを取っていた[6]。また、リバティ百貨店は日本風デザインの布地や家具を販売し始め、女性誌では日本風を取り入れた新しいドレスが誌面を飾るようになった[7]。
ジャポネズリーからジャポニスムへ


エドゥアール・マネの『エミール・ゾラの肖像』は、ジャポネズリーの代表的なものであると考えられる。この作品はマネ自身の日本趣味を表しており『エミール・ゾラの肖像』はマネのアトリエで描かれた作品であり、画中の日本の絵画もマネのコレクションである[8]。この作品そのものには日本の絵画の表現方法が顕著に取込まれているわけではなく、オランダのフィンセント・ファン・ゴッホの『タンギー爺さん』も同様の感覚によるものであるとも考えられる。
葛飾北斎や喜多川歌麿、歌川広重を含む浮世絵師の作品は、絶大な影響をヨーロッパに与えた。なお、影響を受けたアーティストとして、ピエール・ボナール、マネ、アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック、メアリー・カサット、エドガー・ドガ、ピエール=オーギュスト・ルノワール、ジェームズ・マクニール・ホイッスラー、クロード・モネ、ゴッホ、カミーユ・ピサロ、ポール・ゴーギャン、グスタフ・クリムトなどがいた。
あらゆる芸術分野で影響を受けたが、版画が特に影響を受けた。ヨーロッパで主流だったのはリトグラフであって、木版画ではなかったが、日本の影響を抜きにして、ロートレックのリトグラフポスターについて語れない。木版画によるジャポニスム作品としては、モノクロではあったものの、ゴーギャンとフェリックス・ヴァロットンがあげられる。
イギリスへの日本美術の伝達にはホイッスラーが重要な役割を果たした。当時パリは日本の物産の集散地として知られており、ホイッスラーは滞在中に優れたコレクションを蓄積した。米国へは、有田市出身の江藤源次郎が米国へ渡ってコネチカット州のコスコブ・アート・コロニーに参加した際に、そこの印象派画家たちに日本画技法を伝え、米国でのジャポニスムを起こすのに貢献している。
ゴッホのいくつかの作品は浮世絵のスタイルを模倣したり、それ自体をモチーフにしたりしている。たとえば『タンギー爺さん』(あるアートショップのオーナー)の肖像画には、背景に6つの浮世絵が描かれている。またゴッホは、1886年に渓斎英泉の浮世絵をパリの雑誌『パリ・イリュストレ』(Paris Illustré)で見つけた後、1887年に『花魁』を描いている。ゴッホはこの時すでにベルギーのアントワープで浮世絵版画を収集していた。
浮世絵は線で構成されており、何も無い空間と図柄のある部分に輪郭線がくっきりと分かれ、立体感はほとんど無い。これらの特徴はアール・ヌーボーに影響を与えた。浮世絵の直線と曲線による表現方法は、その後、世界中の全ての分野の絵画、グラフィックで当たり前のように見ることができるようになった。これらの浮世絵から取り入れられた形状と色彩構成は、現代アートにおける抽象表現の成立要素のひとつと考えられる。ジャポニスムによって、その後の家具や衣料から宝石に到るまであらゆる工芸品のグラフィックデザインに、日本的な要素が取り入れられるようになった。
音楽に関しては、ジャコモ・プッチーニの有名な『蝶々夫人』がジャポニスムの影響を受けている。また、ウィリアム・ギルバートとアーサー・サリヴァンによるオペレッタ『ミカド』は、ロンドンのナイツブリッジで行われた日本の展示会から着想を得たものである。
ジャポニスムの影響



左上の絵は、19世紀中頃の写実主義のフランスの画家の一人、ラトゥールの『テーブルの隅』という絵である。左下は世紀末のフランスの画家の一人、ロートレックのポスター画である。ロートレックはジャポニスムの影響を強く受けた画家の一人で、このロートレックのポスターは現代人の目には特別なものには映らないが、当時の西洋人にとってはかなり斬新な表現方法を使った絵であった。
まず、ロートレックの絵にはテーブルのラインが画面を真っ二つに切るように斜めに入っている。ジャポニスム以前の絵画では、このように大胆に斜めのラインが入ることは珍しく、ラトゥールの絵のように水平に入るのが普通であった。これは右の広重の浮世絵に見られるような構図がインスピレーションになっていると考えられている。
またラトゥールの絵では遠近法と陰影、細部の描写により立体感を表現しているが、ロートレックの方は平面の組み合わせで描写され、立体感の表現は全く放棄されている。人物や物体の輪郭が線で表現されるのも、ジャポニスム以前のヨーロッパではあまり見られない表現方法であった。色使いも大胆で鮮明な原色が画面のかなりの面積を占めており、油彩とリトグラフという比較障害があるとしても、ラトゥールの絵とは好対照である。
左の絵では比較しにくいが、ジャポニスム以前の絵画では地平線の位置が画面中央付近から下部に水平に表現されるのが普通であった。ジャポニスム以降は地平線が画面上部に描かれたり、あるいは背景全部が地面または床になることが普通に見られるようになる。このようなジャポニスムの影響は、20世紀に入るとヨーロッパのあらゆる視覚表現に普遍的に見られるようになり、これはジャポニスムでこちらはそうではない、と区別することが意味を成さなくなっていく。
また、当時としては西洋美術は宗教画の流れを組み、小鳥や虫などの生命や市民を題材にするなどの発想は無く、その自由な題材に大いにインスピレーションを受けた[9]。
イギリスの作家アーサー・コナン・ドイルはシャーロック・ホームズシリーズの一編「高名な依頼人」(1925年)において、聖武天皇および正倉院について触れている。当時のイギリスでは日本はあまり知られておらず、正倉院については戦後の1946年に一般公開されるまで日本でも有名というわけではなかった。ドイルがこうした日本についての詳細な知識を持っていたのは、幼少時からの友人、ウィリアム・K・バートンから聞いたためではないかとする説がある。バートンは衛生工学の教授として東京帝国大学に招かれたお雇い外国人で、10年以上日本で生活をした人物である。バートンには正倉院についての知識があり、それをドイルに伝えたことがあったのだと考えられる[10][11]。
ギャラリー
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ピエール=オーギュスト・ルノワール『うちわを持つ少女』 1881年。
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日本の日傘を持つフランスの舞台女優サラ・ベルナール(1844年 – 1923年)。1881年撮影。
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グスタフ・クリムト(1862年 – 1918年)『Liebe』 1895年。
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歌川広重の浮世絵(左)と、ゴッホによる模写(右) 1887年。
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歌川広重の浮世絵(左)と、ゴッホによる模写(右) 1887年。
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ジェームズ・マクニール・ホイッスラー『La Princesse du Pays de la Porcelaine』 186] – 1864年。
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アンリ・リヴィエールの『エッフェル塔三十六景』 1902年。
脚注
注釈
- ^ ただし、池上忠治、馬渕明子らはこの逸話は伝聞でしかなく、裏付けとなる確証はないと批判している。太田記念美術館の考証「浮世絵が陶磁器の包み紙として海を渡ったのは本当?という話。」ではこの逸話の初出をフランスの美術史家レオンス・ベネディットの1905年の著作としている。
出典
- ^ "Rethinking Japan. 1. Literature, visual arts & linguistics" by Adriana Boscaro,Franco Gatti,Massimo Raveri p141
- ^ Weisberg, Gabriel P. (April 1975). "Aspects of Japonisme". The Bulletin of the Cleveland Museum of Art. Cleveland Museum of Art. 62 (4): p120
- ^ 柴田道子, 「フランスにおけるジャポニスムのある側面について」『金城学院大学論集』 203号, p.57-71, 2003年, NAID 110004362158
- ^ 『キプリングの日本発見』ラドヤード・キプリング, 中央公論社, 2002, p49。
キプリングのジャポニスム評についてはオスカー・ワイルド#日本との関係も参照。 - ^ 『薩摩と西欧文明: ザビエルそして洋学、留学生』ザビエル渡来450周年記念シンポジウム委員会図書出版 南方新社, 2000
- ^ 『イギリス文化入門』三修社 p328
- ^ 佐々井啓、19 世紀末イギリスの日本趣味 -ティー・ガウンと子どもファンシー・ドレスを中心に- 『日本家政学会誌』 2010年 61巻 4号 p.221-230, doi:10.11428/jhej.61.221
- ^ 出典:『マネ 近代絵画の誕生』(「知の再発見」双書(137) フランソワーズ・カシャン 創元社 74頁 ISBN 9784422211978)
- ^ “浮世絵に影響を受けた海外の芸術家/ホームメイト”. 2025年3月1日閲覧。
- ^ 中尾真理「聖武天皇と奈良の正倉院」『ホームズなんでも事典』平賀三郎編著、青弓社、2010年、102-104頁
- ^ 東山あかね「聖武天皇(と正倉院)」『シャーロック・ホームズ大事典』小林司・東山あかね編、東京堂出版、2001年、351-352頁
参考文献
- 大島清次『ジャポニスム 印象派と浮世絵の周辺』美術公論社、1980年/講談社学術文庫、1992年
- 由水常雄『ジャポニスムからアール・ヌーヴォーへ』美術公論社、1982年/中公文庫、1994年
- 朝日新聞社編『ジャポニズムの謎』アサヒグラフ別冊美術特集、1990年
- 深井晃子『ジャポニスム イン ファッション-海を渡ったキモノ』平凡社、1994年
- 児玉実英『アメリカのジャポニズム-美術・工芸を超えた日本志向』中公新書、1995年
- 馬渕明子『ジャポニスム 幻想の日本』ブリュッケ、1997年、新版2015年
- 三井秀樹『美のジャポニスム』文春新書、1999年
- ジャポニスム学会編 『ジャポニスム入門』思文閣出版、2000年
- ジャポニスム学会編 『ジャポニスムを考える』思文閣出版、2022年
- 東田雅博『ジャポニスムと近代の日本』山川出版社、2017年
- 東田雅博『シノワズリーか、ジャポニスムか 西洋世界に与えた衝撃』中公叢書、2015年
- 宮崎克己 『ジャポニスム 流行としての「日本」』講談社現代新書、2018年
- 新見隆『空間のジャポニズム-建築・インテリアにおける日本趣味』 INAX 2001年
- 岡部昌幸『すぐわかる画家別西洋絵画の見かた』東京美術、2002年
- フィリップ・ティエボー『エミール・ガレ - その陶芸とジャポニスム』平凡社、2003年
- クラウディア・デランク『ドイツにおける「日本=像」-ユーゲントシュティールからバウハウスまで』思文閣出版、2004年
- 羽田美也子『ジャポニズム小説の世界-アメリカ編』彩流社、2005年
- 上野理恵『ジャポニスムから見たロシア美術』東洋書店、2005年
- 小山ブリジット『夢見た日本 エドモン・ド・ゴンクールと林忠正』高頭麻子・三宅京子訳、平凡社、2006年
- 林忠正シンポジウム実行委員会『林忠正 ジャポニスムと文化交流』「日本女子大学叢書」ブリュッケ、2007年
- 小野文子『美の交流―イギリスのジャポニスム』技報堂出版、2008年
- リカルド・ブル、スペイン・ジャポニスムの研究
関連項目
- 印象派
- アール・ヌーヴォー
- シノワズリ
- テュルクリ
- 日仏関係
- 日本学
- 武士道 (新渡戸稲造)
- 茶の本
- ロバート・フレデリック・ブルーム 油絵で日本を描いた
- ジャポニスムの影響を受けた版画家達
外部リンク
- ゴンク-ルの「ジャポニスム」・ゴンク-ルの「忠臣蔵」 斎藤一郎, NAID 110004868611
- 柴田道子、フランスにおけるジャポニスムのある側面について 金城学院大学論集 (203), 57-71, 2003, NAID 110004362158
- 松尾早苗、ドイツのジャポニスム--エルンスト・シューァと日本美術 『人文論叢 : 三重大学人文学部文化学科研究紀要』 (22), 33-47, 2005, NAID 110004473462
- 竹中亨、ジャポニスムから世紀末の憂愁へ― 19 世紀末のオーストリアにおける日本観 Journal of History for the Public., Vol. 3, 2006
- 北川正、ジャポニスムの底流 東京家政学院大学紀要 人文・社会科学系 (44), 111-124, 2004, NAID 110001061788
ジャポニスム
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(左)モネ『オンフルールのバヴォール街』(1864年ごろ)(右)歌川広重『名所江戸百景 猿わか町よるの景』(ジヴェルニー、モネ・コレクション) 1854年に日本が開国すると、1862年ごろ日本の美術品がパリの店頭に登場し、1867年にパリ万国博覧会が開かれるなど、パリにも日本美術が伝播してきた。1870年代から1880年代には、パリを中心に日本ブームが巻き起こった。フランスの美術や工芸は、エキゾティックな関心から、浮世絵などに表れたモティーフを作品に取り込むようになり、これをジャポネズリー(日本趣味)という。これに対し、構図や空間表現、色彩など、造形のさまざまな要素において日本美術からヒントを得て、新しい視覚表現を追求したことをジャポニスムという。1860年代に修行時代を過ごした印象派の画家たちは、日本美術に触れる機会を持ち、その影響を受けたことが指摘されている。 モネも多数の浮世絵のコレクションを保有しており、ジヴェルニーの家には浮世絵を飾っていた。モネが浮世絵のコレクションを始めた時期については諸説あり、早いものでは少年時代の1856年ごろ、別の説では1871年のオランダ旅行のときとされるが、モネが浮世絵の魅力を知ったのは、パリで浮世絵が商品として買えるようになった1862年以降というのが有力な説である。 (左)モネ『ボルディゲーラ』(1884年)(右)広重『東海道五十三次 由井』(ジヴェルニー、モネ・コレクション) モネの1860年代の町の風景画には、歌川広重や葛飾北斎と酷似しているものがあり、たとえば『オンフルールのバヴォール街』では、広い前景から道が急速に後退し、右に消えていくが、これは、西洋の遠近法を修正した広重の『名所江戸百景 猿わか町よるの景』における手法と似ている。ほかにも、『王女の庭』における俯瞰する構図、『サン=タドレスのテラス』や『かささぎ』に見られる画面を上下に分断する水平線・地平線などは、それまでのヨーロッパの風景画にはほとんど見られず、浮世絵にヒントを得て現実の視覚体験を表現したものであることが指摘されている。 1870年代には、妻カミーユに日本の着物を着けさせて団扇などの日本のモティーフを描き込んだ『ラ・ジャポネーズ』が典型的なジャポネズリー(日本趣味)の作品であるが、こうした着想はマネやジェームズ・マクニール・ホイッスラーにならったものであり、特に目新しいものではない。また、こうしたあからさまな日本趣味はこの1点だけである。 (左)広重『六十余州名所図会 相模江之嶋 岩屋ノ口』(右)同『薩摩坊ノ浦 雙剣石』(いずれもジヴェルニー、モネ・コレクション) むしろ1880年代半ば以降に、画面のモティーフを厳選し、近景と遠景とを組み合わせるといった新しい工夫が次々現れる。1884年の南仏旅行では、起伏に富んだ景観を基に、近景のそそりたつ斜面と遠景とを組み合わせた構図、前景をふさぐ木の幹と枝越しに見える町並みを組み合わせた構図などを採用しているが、浮世絵に着想を得たものと考えられる。さらに、1885年のエトルタ、1886年のベル=イル島での海景画では、モティーフを奇岩と海だけに厳選しているが、こうした構図も、昇亭北寿の『勢州二見ヶ浦』や広重の『六十余州名所図会』(いずれもジヴェルニー、モネ・コレクション所蔵)と酷似している。1887年の『舟遊び』での視点の高さとモティーフの切り方は、ジャポニスムの成熟の表れと見られる。晩年の『睡蓮』大装飾画は、少ない自然のモティーフを使った装飾空間で観る者を包み込み、自然との一体感を演出するという点で、日本の障壁画(特に襖絵)と共通する発想であるとの指摘もされている。もっとも、自然のモティーフを使いながらも自然観察に重きを置かない日本の襖絵と異なり、モネは、装飾的であると同時に、自然観察に忠実であることを追求している。
※この「ジャポニスム」の解説は、「クロード・モネ」の解説の一部です。
「ジャポニスム」を含む「クロード・モネ」の記事については、「クロード・モネ」の概要を参照ください。
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