エミール・ガレとは? わかりやすく解説

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エミール・ガレ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/05/25 08:40 UTC 版)

エミール・ガレ(1889年)

シャルル・マルタン・エミール・ガレ: Charles Martin Émile Gallé1846年5月4日 - 1904年9月23日)は、フランスにおけるアール・ヌーヴォーを代表するガラス工芸家、陶芸家、家具作家、工芸デザイナーアートディレクター、工場経営者。

生涯

1846年5月4日、高級ガラス器と鏡の小売販売店の息子としてフランスロレーヌ地方ナンシーで誕生。

1858年にナンシー帝立高等中学校フランス語版帝国リセ)に入学。修辞学文学哲学植物学に優れた成績を修めた。

1865年の秋から67年1月までドイツのヴァイマルに留学し、ドイツ語とデザインなどを学ぶ。

1867年、マイゼンタール英語版のブルグン・シュヴェーラー社 (Burgun Schwerer & Cie.) のガラス工場でガラス製造の技術を研鑽する。

1870年、プロシアとフランスの間に普仏戦争が始まり、ガレは第23戦列歩兵部隊に入隊。

1871年にプロシア軍はフランス軍を圧倒しパリに入城。敗戦国となったフランスはフランクフルト条約によりガレの故郷ロレーヌ地方の一部とアルザス全域を割譲した。退役後、父についてイギリスを訪問し、サウス・ケンジントン美術館を見学。

1873年、ガレ家はガレンヌ通り2番へ転宅し、新居の庭に陶器の加飾の工房と倉庫が設営される。

1877年、ガレは父に代わって社主となる。

1878年、パリ万国博覧会に、『北斎漫画』十三編の「魚濫観世音」の鯉のデザインをそのまま採り入れた『鯉魚文花瓶』や[1]、独自に開発した'月光色'ガラス(酸化コバルトによって淡青色に発色させた素地)、陶器などを出品し、銅賞を受賞(第19・20クラス)。また庭園装飾のための陶器で銀賞を受賞(第85クラス)。

1879年以降ほぼ毎年、販売品の大部分の意匠をナンシーの労働裁判所に登録したと考えられているが、これらの意匠登録用アルバムは四散している。[2] 1882年には意匠登録用の29枚のアルバムを同労働裁判所に届け出ており、このアルバムは1980年代初頭のオークションで北澤美術館が入手した。[2]

1884年、第8回装飾美術館中央連盟展(「石、建築用材、土、ガラス」がテーマ)に出品し、金賞を受賞。

1885年より、ナンシー水利森林学校に留学中の農商務省官僚で美術に造詣の深い高島得三(雅号:高島北海)と交流を持ち、日本の文物や植物などの知識を得たとされる。高島がナンシーで描いて配った水墨画などは400点もあり、ガレも高島画を2点貰っていたという。高島が描いたぼかしを多用する水墨画の手法からヒントを得て、ガレは1887年頃から彫刻技術を使って水墨画的なぼかし表現を追求した黒褐色のガラス連作を生み出したのではないかと推定する解釈もある。しかし、ガレ側にも高島側にもこの点に関する記録は文書で残されていない。文献の裏付けが取れないケースは美術史では珍しくないが、造形からの推測になるため、人によっては見方が異なる場合もありうる。これに対して、黒の使用例が中国ガラスにもあることから、ガレによる中国ガラスの調査結果が元となって黒褐色ガラスが発生したと考え、高島からの影響を否定する意見もある。この説は、切り立った輪郭の強調を特徴とする中国ガラスと、ガレの柔らかいぼかし表現の様式上の齟齬に関する説明が不十分で、従来からガレが用いてきた彫刻技術の使用方法の変更理由、ぼかし表現へと舵を切った理由の丁寧な説明が求められる。また、ボヘミアにも漆黒ガラスの前例があって、ガレもそれは知っていて模倣作も作っていた。重要なのは、黒褐色のガラス素材を使えば、自動的にガレが編み出した彫刻技法を使った絵画的なぼかし表現が導き出されるわけではない点である。実際、ボヘミアの黒色ガラスでは、黒を使ったぼかし表現は皆無といえる。ガレは高島と出会う1885年以前から黒色ガラスを使っていたが、その頃の作品には彫刻技術によって黒の濃淡を加減し、複雑なぼかしを多用する手法はみられない。黒いガラス素材の使用開始時期の探求と、手慣れた加工手法を応用して新たな表現を模索し始めた経緯に付いての考察は分けて考えるべきで、ガレの創作の転機となった黒褐色ガラス連作については、今後の新資料の発見に期待するとともに、より精緻な調査の進展が望まれる。ちなみに、これらの言説はムックや展覧会図録に掲載された文章であって、第三者による内容のチェック(査読)を受けて学会誌などに掲載が認められる学術論文として発表されたものではない。自由な書式で書かれた随筆の扱いとなるため、その内容を定説であるかのように扱う必要はない。(本質はどのような媒体で発表されているかではなく、なにが事実かということである。)

ただし、ナンシー派美術館館長で主任学芸員のヴァレリー・トマ氏と、エスカリエ・ド・クリスタルの研究者でトゥール大学歴史学教授のディディエ・マッソー氏の見解に拠れば、この「悲しみの花瓶」と同じ素地を持つ作品は1884年頃の制作とされており、それはガレが高島に会う以前である。(Cf.「エミール・ガレ 杯「夜」― ナンシー派美術館館長 ヴァレリー・トマ」: https://erte1920.com/topics/2024-11-05-2.html[3])だとすれば、高島の墨絵からガレの「悲しみの花瓶」への影響関係は成立し得ないことになる。

さらに、ガレ自身がこの「悲しみの花瓶」の素地を「オニキス風」と呼んでいて、オニキス、すなわち黒瑪瑙に想を得たことを明らかにしている。ガレ側に着想源が明確に文書で残されていることは極めて重要である。本件は決して「文献の裏付けが取れないケース」ではなく、反証を裏付ける多くの文献が実際に提起されている。(詳しくは以下を参照:「徳島県立近代美術館「没後120年 エミール・ガレ展」図録 ― 高島北海の墨絵がガレの「悲しみの花瓶」の生成に影響を及ぼした という仮説の誤謬と同展監修者による数々の不適切な引用について」:https://erte1920.com/topics/2024-11-05-1.html)

高島墨絵影響説の提唱者は、まずこれらの反証についての丁寧な説明が求められる。

加えて、当該提唱者は当初からこの主張が「ガレと高島の間で交わされた会話内容を想定して組み立てた推論である」と書いている。(Cf. 1999年刊、平凡社別冊太陽『アール・ヌーヴォー アール・デコ VI』所収、鈴木潔「世紀末の蜻蛉 ― ガレとジャポニスム再考」77-79頁。)推論の根拠とされる二者間の会話内容自体が提唱者の空想によるもので、その空想をもとに推論が展開されている。具体的な史資料の提示はなく、根拠となっているのは同提唱者の空想である。(ウィキペディアの編集にあたっては、提唱者の論考やそれらへの反証を記した典拠[URL等の情報]を削除する行為は避けるのが公正な学問的立場といえる。どのような反証が存在するのかを検証するうえで典拠は必要不可欠な情報であり、被覆してはならない対象である。)

1886年、ナンシーの自宅に近いガレンヌ通り27番に建設した工房で家具制作を開始。

1889年のパリ万博に陶器、ガラス器、家具を大量に出品、また自社製のキオスク(あずまや)を会場に用意して展示作品の効果的な演出を試みた。ガラス部門でグランプリ、陶器部門で金メダル、家具部門で銀賞を受賞し、装飾工芸家として国際的な名声を得る。特に黒褐色のガラス素地を使用した一連の作品は高い評価を受けた。代表作に「オルフェウスとエウリディケ」(現パリ装飾美術館蔵)がある。

ガレのガラス炉

1894年に家具工房が置かれていた敷地を買い増しして、ガラス製造のための本格的な炉の備わった工場を完成させる。

1898年、「マルケトリー技法」、「パチネ技法」で特許を取得。

1900年のパリ万博に大量のガラス器、家具を出品。再びグランプリを獲得し、評価を不動のものとする。

1901年、「ナンシー派[エコール・ド・ナンシーフランス語版]」の会長に就任。

1903年、パリのルーブル宮マルサン館で開催されたナンシー派展に出品。

1904年9月23日、白血病により死去、58歳。

「自画像」
ヴィクトール・プルーヴェ画「エミール・ガレの肖像」

その後工場は、画家のヴィクトール・プルーヴェと夫人のアンリエット・ガレによって経営が続けられた。製造品はエッチング(酸化腐蝕彫り)によるカメオ・ガラスの製品が大半を占めた。

第一次世界大戦中、ガレの工場は製造を中止していたが、戦後は娘婿のポール・ペルドリーゼによって経営が引き継がれた。アメリカの好景気にも後押しされ、再び世界各国に輸出されるようになるが、恐慌さなかの1931年に会社は解散。工場の敷地は売却された。

代表的な技法と作品

  • マルケトリー(marqueterie英語版):ガラスパーツをガラスへ象嵌する技法。
  • パチネ(patine):「古色をつけた」の意味。ガラスの表面を錆色にくもらせたり、濁らせる技法。
  • 「もの言うガラス」:表面に詩の一節や警句などを記すデザインのガラス器についた名前。
  • ファイアンス焼き : 父シャルルの家業を継いで製作されたもの。日用雑器から芸術作品まで装飾的な製品を幅広く制作していた。陶器のデザインは1891年にガレは放棄している。ガレ没後の工房では製造されなかった。

ギャラリー

ガレ作品・所蔵美術館
ひとよ茸ランプ所蔵美術館

脚注

  1. ^ 浦上満『北斎漫画入門』文藝春秋、2017年10月20日、pp.166‐169
  2. ^ a b 池田まゆみ「文化 ガレ作品 下絵でたどる 仏人気芸術家のガラス工芸品、紙史料通じ研究」日本経済新聞日刊2013年7月19日。
  3. ^ 「エミール・ガレ 杯「夜」― ナンシー派美術館館長 ヴァレリー・トマ」”. 2025年5月25日閲覧。

関連項目

外部リンク

北斎漫画の「魚籃観世音図」を月光色ガラスにエナメルや金彩で模写した作品を所蔵している。1878年パリ万博関連の作例で資料価値が高い。他に悲しみの花瓶シリーズの「昆虫文脚付杯」、1900年パリ万博関連の「ガラス職人文花瓶」。





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