悲しみの花瓶とは? わかりやすく解説

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悲しみの花瓶

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/06/10 03:08 UTC 版)

『悲しみの花瓶』Vase de Tristesse)はエミール・ガレが制作した一連の黒いガラス作品の慣用的呼称

解説

高島北海がナンシー滞在中に描いた墨絵の影響を受けて、ガレは水墨画的なぼかし表現を伴う黒褐色のガラス、所謂「悲しみの花瓶」を生み出したとする仮説[1](1999年初出)が唱えられていた。しかし、この仮説には以下のような決定的な反証が存在し、現在では否定されている。

ガレは1884年頃「悲しみの花瓶」の素地を制作したとされており[2]、それはガレが高島と出会う1886年の秋より前のことである。[3] 従って、高島の墨絵に関しては時系列的に高島からガレへの影響関係は成立しえないことになる。このガラス素地が1884年頃に制作されているという年代推定は、ナンシー派美術館館長で主任学芸員のヴァレリー・トマ氏と、エスカリエ・ド・クリスタルの研究者でトゥール大学歴史学教授のディディエ・マッソー氏によるもので、明確な論拠を伴った信頼性の高い所見である。[4]

ガレはこのガラス素地を「オニキス風 façon onyx」と呼んでおり、その着想源を明らかにしている。つまり、「悲しみの花瓶」の素地は「オニキス」、すなわち半貴石の黒瑪瑙に想を得たとガレ自身が証言しているということである。これも決定的な反証のひとつといえる。[5]

高島の墨絵影響説の提唱者は、この黒いガラス素地をガレが「玉滴石」と呼んだと解釈しているが、これは明らかに原典(仏語原文)の訳語の取り違えである。フランス語の「ヤリトhyalite」には「(鉱物の)玉滴石」と「(19世紀ボヘミアで製造された類の)黒いガラスverre noir」の意味があるが、ガレは単に「黒いガラス」という意味でこの言葉を使っている。ガレが鉱物の「玉滴石」を指して「ヤリト」と呼んでいるのではないことは、自身がこの素地を「オニキス風」と呼んでいる事実が明快に証している。さらに、玉滴石は黒いガラスを制作する際に使用される鉱物ではなく、ガレがこの鉱物の色調や風合いをガラス素地上で再現しているわけでもない[6]。高島の墨絵とも無関係である。

ガレは1884年第8回装飾美術中央連盟(連合)展にも、「悲しみの花瓶」の素地よりさらに強く墨絵を想起させるガラス作品を出展している。[7] これも同様にガレが高島に会う以前のことであり、仮に墨絵の影響がそこにあったとしても、それは決して高島の墨絵からの影響ではない。

同提唱者はガレが高島の席画を目の当たりにしたという憶測を前提に高島墨絵影響説を展開している[8]が、ガレは高島の席画について何一つ言葉を遺しておらず、ガレがそれを実見したこと自体が明らかにされていない[9]。様々な記事のなかで、自身の作品への日本や中国やペルシャの影響を躊躇なく披瀝しているガレが、高島の席画に関しては何も書き遺していない事実も、それがガレに何ら特別な印象を残さなかったことの傍証のひとつと言える。

ガレと親しかった同時代の美術批評家たちは挙ってガレの被せガラスの素地がベルリンの美術館で実見・調査した中国工芸品の影響であると書き遺している[10]。事実、ガレは明らかに中国の鼻煙壺を参考にしたと判断しうる数々のガラス作品を制作している。黒いガラス素地も決して埒外ではない[11] 。こうした情報を当初から把握していた現在のフランスやドイツの研究者たちは一様に高島墨絵影響説を一蹴している[12]

「悲しみの花瓶」への高島墨絵影響説は「ガレと高島の間で交わされた会話内容を想定して組み立てた推論である」(前掲1999年初出論考)と同提唱者は書いている。推論の根拠とされる二者間の会話内容自体が提唱者の空想によるもので、その空想をもとに推論が展開されている。そこに実証的な史資料の提起はなく、根拠となっているのはあくまで同提唱者の仮構である[13]

上記の事柄を考え合わせると「高島墨絵影響説」はもとより成立しえない仮説であったと結論付けられる。

出典

  • 山根郁信「エミール・ガレと中国のガラス」、サントリー美術館『ガレも愛した ― 清朝皇帝のガラス』展図録所収、2018年。
  • 山根郁信「ガレと中国のガラス」、同著者『エミール・ガレ 史料で紐解く、人と作品』所収、河出書房新社、2024年。
  • 山根郁信「松濤美術館『没後120年 エミール・ガレ展』図録 ― 黒いガラスの生成に関する同展監修者の誤謬について」WEB記事、2024年。[URL: https://erte1920.com/topics/2024-06-05.html]
  • 山根郁信「徳島県立近代美術館『没後120年 エミール・ガレ展』図録 ― 高島北海の墨絵がガレの「悲しみの花瓶」の生成に影響を及ぼしたという仮説の誤謬と同展監修者による数々の不適切な引用について」WEB記事、2024年。[URL: https://erte1920.com/topics/2024-11-05-1.html ]
  • ナンシー派美術館館長ヴァレリー・トマ「エミール・ガレ 杯「夜」」WEB記事、2024年。 [URL: https://erte1920.com/topics/2024-11-05-2.html]
  • 井土誠「高島北海・ナンシーにおける活動とその反響」、第2号平成元年3月『下関市立美術館研究紀要』所収。

脚注

  1. ^ 鈴木潔「世紀末の蜻蛉 ― ガレとジャポニスム再考」平凡社ムック別冊太陽『アール・ヌーヴォー アール・デコ VI』所収、70-79頁。
  2. ^ Emile Gallé et le verre: La collection du musée de l'école de Nancy, Somogy, 2004, cat.no.132, p.102. Annick et Didier Masseau, L'Escalier de cristal. Le luxe à Paris 1809-1923, Éditions d'art Monelle Hayot, 2021, p.192. ナンシー派美術館ヴァレリー・トマ「エミール・ガレ 杯「夜」」WEB記事 https://erte1920.com/topics/2024-11-05-2.html
  3. ^ 『下関市立美術館研究紀要』(第2号平成元年3月)所収、井土誠「高島北海・ナンシーにおける活動とその反響」22頁、関連年譜。「この年[1886年]の秋頃、ガレと高島の交流が認められる」と記載。
  4. ^ エスカリエ・ド・クリスタルはパリ、オペラ座近くにあった高級工芸品の小売販売店。ガレのエナメル彩作品にブロンズ製の台座をマウントして販売していた。「悲しみの花瓶」と同じ素地の作品「夜」(ナンシー派美術館蔵、1884年頃)には同販売店が外注制作したブロンズ製台座がマウントされている。エスカリエ・ド・クリスタルの研究者であるディディエ・マッソー氏のモノグラフィ(前掲書)にはナンシー派美術館所蔵の「夜」が複製(192頁)されており、そのキャプションに「1884年頃」と記されている。トマ氏、マッソー氏とも当該制作年に関する見解は一致している。
  5. ^ 山根郁信『エミール・ガレ 資料で紐解く、人と作品』河出書房新社、2024年、198-200頁。フランス語の「onyx」は一般的に黒瑪瑙のこと。Cf.: Onyx (minéral) — Wikipédia https://fr.wikipedia.org/wiki/Onyx_(minéral) 「Couleur variée (généralement noire)」(一般的には黒)とある。
  6. ^ 山根前掲書、214頁、脚注65。 以下のWEB記事にも詳解:「徳島県立近代美術館「没後120年 エミール・ガレ展」図録 ― 高島北海の墨絵がガレの「悲しみの花瓶」の生成に影響を及ぼした という仮説の誤謬と同展監修者による数々の不適切な引用について」 URL: https://erte1920.com/topics/2024-11-05-1.html  仮説の提唱者は「おぼろげなグラデーションによって暗い雲間から明るい空をのぞむような透明部分は、細かいマルトレが入っていることも相まって玉滴石のイメージを連想させなくもない」(松濤美術館『没後120年 エミール・ガレ展』図録、143頁、作品解説48番)と書いているが、これは明らかに提唱者の牽強付会で、「悲しみの花瓶」のガラス素地と鉱物の玉滴石との間に何ら関連性はない。抑々「玉滴石」は「黒いガラスhyalite」の誤訳から生じた言葉であって、ガレはこの素地を決して「玉滴石」とは呼んでいない。
  7. ^ 山根郁信「エミール・ガレと中国のガラス」、サントリー美術館『ガレも愛した ― 清朝皇帝のガラス』展図録所収、2018年、18頁。前掲WEB記事にも画像複数掲載。 URL: https://erte1920.com/topics/2024-11-05-1.html
  8. ^ 鈴木前掲初出論考、70-79頁。
  9. ^ 山根前掲書、219頁、脚注39。
  10. ^ 山根前掲書、192-200頁。 ルイ・ド・フルコー『エミール・ガレ』(1903年)、メモロンのディスクール(1900年)、ロベール・ド・モンテスキウの回顧(1910年)、ロジェ・マルクス(1890年)の証言など具体的な言説が訳載。高島の墨絵影響説の提唱者はドイツの美術史家の所見を援用して中国工芸品の影響説に反論を試みている(松濤美術館・徳島県立近代美術館『没後120年 エミール・ガレ展図録』2024年、122頁、註18)が、それは引用の差し替えや改変による不適切な論拠によるものであることが適示されている。(典拠:前掲WEB記事 、2024年。[URL: https://erte1920.com/topics/2024-11-05-1.html ]) 自説を正当化するための不当な引用改変を指摘され、同展巡回先の徳島県立近代美術館の図録では問題箇所に訂正シールが貼付され、文面の書き替えを余儀なくされている。(典拠:前掲WEB記事。)
  11. ^ 山根郁信「エミール・ガレと中国のガラス」、サントリー美術館『ガレも愛した ― 清朝皇帝のガラス』展図録所収、2018年、14-21頁。以下の記事に具体的な作例の比較画像掲載。 URL:https://erte1920.com/topics/2024-06-05.html及びhttps://erte1920.com/topics/2024-11-05-1.html
  12. ^ 山根前掲書、200頁。オルセー美術館元主任学芸員フィリップ・ティエボーはこう述べている。「1884年には、日本美術発見の時は決定的に過ぎ去っており、輸入品が巷にあふれて倦怠感すらもたらしていた。(中略)ガレはこの当時、すでに20年近く「日本文化に接していた」のである。(中略)これら(高島がナンシーで披瀝した日本美術の諸要素)は別段あたらしいものではない。(中略)(それらは)ナンシーの日本美術びいきの小さな美術界にはすでにお馴染みのものであった。」(典拠:サントリー美術館『ガレとジャポニスム』展図録所収、フィリップ・ティエボー「これはもはや日本のものではなく、ガレのものだ」 2008年、15頁。)
  13. ^ 山根前掲書、206頁、脚注20。 同提唱者が当該仮説に言及している記述の出典すべてが挙げられ、著者の所見が添えられている。それに拠れば、初出では「推論」であったはずの高島影響説が、後の刊行物の記述においては、根拠が何も示されないまま、定説であるかのような断定的表現に変わっており、いずれも一次資料の渉猟、提起、考証という学術論文としての基礎作業を伴っていないとある。



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