アンデシュ・ソーンとは? わかりやすく解説

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アンデシュ・ソーン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/06 13:49 UTC 版)

アンデシュ・ソーン
Anders Zorn
『自画像』(1915年)
本名 Anders Leonard Zorn
誕生日 (1860-02-18) 1860年2月18日
出生地 ムーラ
死没年 1920年10月31日(1920-10-31)(60歳)
死没地 ストックホルム
国籍  スウェーデン
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アンデシュ・ソーンアンデルスアンデースとも、Anders Leonard Zorn1860年2月18日 - 1920年8月22日)は、スウェーデン画家彫刻家エッチング版画家

生涯

ダーラナ地方シリアン湖のほとりの村ムーラ (en) 生まれ。祖父母に育てられる。

1875年から1880年までストックホルムのスウェーデン王立芸術アカデミーで学ぶ。1881年からの4年間はイングランドやスペインなどで学ぶが、毎年夏には地元ムーラに戻ってきていた。1885年にエマ・ラムと結婚し、その後の11年間はイングランドやパリで過ごす。

スウェーデンの同年代の画家の中では最も早く頭角を現し、滞在中のパリでは知名度も高く、画家エドゥアール・マネと幼なじみの政治家アントナン・プルーストと親交もあった。1889年に開催されたパリ万国博覧会の展示会には、友人でありライバルでもある画家カール・ラーションと共に作品を出展し、グランプリの受賞も期待されるほどであった。(実際はリッカルド・ベリがグランプリをとり、ソーンとラーションは次点の金賞を分け合った。)なお、スウェーデンの資産家ポントゥス・フュシュテンベリーはソーンやラーションらのパトロンであり、彼の援助を受けて2人は万博に出席することもできた[1]

ムーラにあるソーンの家は現在美術館「Zorngården (en)」として公開されている。住人の必要性と発想によって増築や改築を重ねたその家には、ラーションの家リッラ・ヒュットネースとの類似点がみられる[2]

2010年6月3日、1886年に描かれたソーンの水彩画『Sommarnöje(Summer Delight)』が2,600万クローネで落札された。これはスウェーデンの美術史上で最も高値で取引された絵である。[3]

主な作品

Zorngården

脚注

  1. ^ 岡部昌幸「パリのスウェーデン人画家と日本,1877-1889」『カール・ラーション展』203頁。
  2. ^ エーヴァ・エーリクソン「スウェーデン人・インテリアの理想としてのスンドボーンの家」『カール・ラーション展』荒屋鋪透訳、55頁。
  3. ^ Anders Zorn painting sold at record price”. 2011年10月22日閲覧。

関連項目

参考文献

外部リンク




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