盛期ルネサンス
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盛期ルネサンス(せいきるねさんす、英語:High Renaissance)は、美術史において、イタリアのルネサンス芸術の最盛期(1450年〜1527年)を指す言葉である。前期はメディチ家が支配するフィレンツェによるフィレンツェ派、後期はローマ教皇ユリウス2世による芸術家たちをパトロンとした時期で、活動の中心は、それまでのフィレンツェからローマに移った。このユリウス2世や、後のメディチ家出身の教皇レオ10世などはルネサンス教皇と呼ばれる。
一般に、盛期ルネサンス絵画は1490年代後半に現れたとされている。レオナルド・ダ・ヴィンチがミラノで『最後の晩餐』を描いていた時期である。 またレオナルドダヴィンチはシンナーをやっていたのでこの時期にいきなりうんこーと叫んだりしてた
その頂点は、絵画においては、ミケランジェロやラファエロがバチカンに描いた絵画とされる。建築では、1502年に古代ローマ建築の本格的復古を告げるテンピエットをドナト・ブラマンテが建てたこと。彫刻では、静力学と運動の理想のバランスを特徴とする、ミケランジェロの『ピエタ』、『ダビデ像』が挙げられる。またヴェネツィアでは、ジョルジョーネや若きティツィアーノの、落ち着いた雰囲気・鮮やかな色彩が盛期ルネサンスの好例とされる。
広義にとらえるなら、盛期ルネサンスは創造性豊かな天才の大爆発と言えるだろう。超一流とは言えないかも知れないが、多くの画家たちがこの時期に活動した。たとえば、フラ・バルトロメオやマリオット・アルベルティネッリは、彼らの絵画技法の完全な調和と全体の抑制が注目に値する作品群を制作した。また、後期のミケランジェロやアンドレア・デル・サルト、コレッジョの作品に見られる、長く伸びたプロポーションと誇張されたポーズは、美術史において後期ルネサンスと見なされるマニエリスムの到来を予感させるものである。
その盛期ルネサンスも、1520年のラファエロの死と1527年のローマ略奪によって終焉をもたらされた。16世紀イタリアでは、イタリア戦争がこの時代に頂点に達し、盛期ルネサンスはイタリアでの活力が失われ、同時にヨーロッパ諸国へと拡散していったのである。
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外部リンク
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盛期ルネサンス
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フィレンツェで開花したルネサンス建築が成熟するのは、1450年頃から1499年までスフォルツァ家によって支配されたミラノ、そしてフランス軍によるミラノ占領の後、ブラマンテが移り住んだローマにおいてである。 1450年以降、スフォルツァ家がフィレンツェと同盟関係を結んだことによって、それまでゴシック様式の段階に留まっていた都市には、まずミケロッツォ・ディ・バルトロメオ、アントニオ・フィラレーテ、ジョヴァンニ・アントニオ・アマーデオらによってルネサンス建築が取り入れられた。当時のミラノにはまだ多くのローマ建築の遺構が遺っていたらしく、これらがルネサンス建築の発展に果たした役割は大きいと考えられている。しかし、これらの遺物があるにもかかわらず、初期のルネサンス導入にあたっては、職人たちの間にかなりの抵抗があり、彼らが設計したポルティナーリ礼拝堂、オスペダーレ・マッジョーレ、コッレオーニ礼拝堂などは、かなりの修正が加えられ、結果的にルネサンスとは言えない建築に改変された。 ルネサンス建築の本格的な導入は、1481年頃に、ドナト・ブラマンテとレオナルド・ダ・ヴィンチという二人の芸術家がこの街に滞在したことによって始まる。ブラマンテは1477年頃にサンタ・マリア・プレッソ・サン・サーティロ聖堂の建設で建築の仕事をはじめており、レオナルドは、スケッチなどから1480年代に建築に関心を持つようになったと考えられる。彼らは相互に影響を与えあい、1492年には、ブラマンテの設計によるサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ聖堂東部が起工され、その食堂ではレオナルドが盛期ルネサンス最初の作品とされる『最後の晩餐』に着手した。レオナルドは、人体解剖を行う際に用いた技術的な素描を建築分野に応用し、鳥瞰図などを用いた実用的な設計製図を導入することに寄与した。彼の関心は数学的比例あるいは工学的部分であって、美学的な要素や古代の遺構についてはほとんど興味を持たなかったようである。また、彼はブルネレスキやアルベルティの建築もあまり知ってはいなかったようである。しかし、ブラマンテの初期の設計方法が遠近法的観点(絵画の手法を応用したもの)であったこと、そして、その後のブラマンテの建築を思慮に入れると、レオナルドの機械的で思索的な概念は、ブラマンテの設計手法に大きな影響を与えたと考えられる。レオナルドの建築のスケッチには、ブラマンテのサン・ピエトロ大聖堂の平面を想起させるものもあり、レオナルドがブラマンテを通してルネサンス建築に与えた影響は、大きいと言える。 1499年、フランスに占領されたミラノからローマに避難したブラマンテは、教皇ユリウス2世に召し抱えられた。彼は、ローマからカンパーニアに渡って残る遺跡の実測を精力的に行い、これらの遺構と自らの想像力を駆使して、聖ペテロの殉教地(と伝えられる場所)に立つサン・ピエトロ・イン・モントリオ聖堂の テンピエットを設計した。後世の多くの建築家は、このマルティリウムを古代ローマの偉大な建築と同等のものと見なした。彼はテヴェレ河畔にあるウェスタ神殿(本来はヘラクレス・ウィクトル神殿であるが)を拠り所としたのであるが、その単純な模倣ではなく、英雄的な神の神殿に用いられたドーリア式オーダーを使って使徒聖ペテロにふさわしい古典的な形態を与えた。つまり、ブラマンテはローマ建築をその想像力によって拡張させ、ルネサンス建築が古典建築の手法を完全に再生したと信じさせるにたる美学を確立したのである。 ブラマンテの壮大さはインノケンティウス8世が建設したヴィッラ・ディ・ベルヴェデーレとヴァティカーノ宮殿を結ぶ宮殿の増築においても遺憾なく発揮された。ブラマンテはその中庭にパレストリーナのフォルトナ・プリミゲニア神域のモティーフを取り入れ、壮大なファサードをデザインした。しかし、ブラマンテのデザインは、後世の増築などによって、今日ではほとんど分からなくなっている。邸宅については、もうひとつ主要な作品が伝えられる。1517年にラファエロ・サンティが購入した通称「ラファエロの家」ことパラッツォ・カプリーニである。こちらも現存はしていないが、文献と図版から知られるその構成は、1階をルスティカとし、2階のピアノ・ノービレを、ペディメント付きの開口部とオーダーで装飾したもので、以後の邸宅建築はほとんど全てこのデザインを模倣または下敷きにしていると言っても過言ではない。 ブラマンテがユリウス2世とともにサン・ピエトロ大聖堂の再建計画を練ったのは1505年頃から死に至る1514年までの間である。基石は1506年に置かれはしたが、旧聖堂はすでに1000年以上の歴史を持ち、それ自体が神聖視されていたため、再建行程は困難を極め、また慎重に行われた。ブラマンテの計画案は、ウフィッツィ美術館に収蔵されている、いわゆる「羊皮紙プラン」と呼ばれるもので、これは完全なギリシア十字平面であった可能性が高い(発見されたメダルの立面図からそのように推定されている)。工事はブラマンテによってドームを支える四本の主柱の位置とこれに架けるアーチが決定され、実行されたが、「羊皮紙プラン」の構造体では強度が全く足りなかった。さらにブラマンテの死去によって、建設は完全に混乱に陥り、ブラマンテの死後、作業は20年以上もほとんど進展しなかった。ブラマンテの死後、サン・ピエトロ大聖堂の主任建築家となったのは、彼の理念を継承したフラ・ジョコンド、ラファエロ・サンティ 、バルダッサーレ・ペルッツィ、アントニオ・ダ・サンガッロ・イル・ジョヴァネである。ラファエロはブラマンテのもとで設計を行い、サンタ・マリア・デル・ポポロ聖堂やサンテリージョ・デッリ・オレーフィチ聖堂など、ブラマンテのものとされるいくつかの建築について、彼の名が結び付けられている。サンタ・マリア・デル・ポポロ聖堂のキージ家礼拝堂では、純粋な形態のなかに装飾の豊かさを見ることができ、盛期ルネサンスに女性的な繊細さと優雅さを与えたラファエロの嗜好が現れている。サンガッロが設計し、1518年に起工したモンテプルチアーノ近郊のマドンナ・ディ・サン・ビアージョ聖堂は、さらにブラマンテの直接的な影響を見ることができる。ほとんど同じ平面構成でありながら、彼の兄ジュリアーノ・ダ・サンガッロの設計したプラートのサンタ・マリア・デッレ・カルチェッリ聖堂と比較すると、初期ルネサンスと盛期ルネサンスの違いは明確である。しかし、彼らの誰もブラマンテの巨人的な壮大さについていくことができず、ミケランジェロが計画に参加するまで、工事は混迷し、まったくはかどらなかった。
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