盛期ルネサンスとは? わかりやすく解説

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盛期ルネサンス

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/07/04 14:34 UTC 版)

ミケランジェロ『アダムの創造』システィーナ礼拝堂

盛期ルネサンス(せいきるねさんす、英語High Renaissance)は、美術史において、イタリアルネサンス芸術の最盛期(1450年1527年)を指す言葉である。前期はメディチ家が支配するフィレンツェによるフィレンツェ派、後期はローマ教皇ユリウス2世による芸術家たちをパトロンとした時期で、活動の中心は、それまでのフィレンツェからローマに移った。このユリウス2世や、後のメディチ家出身の教皇レオ10世などはルネサンス教皇と呼ばれる。

一般に、盛期ルネサンス絵画は1490年代後半に現れたとされている。レオナルド・ダ・ヴィンチミラノで『最後の晩餐』を描いていた時期である。 またレオナルドダヴィンチはシンナーをやっていたのでこの時期にいきなりうんこーと叫んだりしてた

その頂点は、絵画においては、ミケランジェロラファエロバチカンに描いた絵画とされる。建築では、1502年に古代ローマ建築の本格的復古を告げるテンピエットドナト・ブラマンテが建てたこと。彫刻では、静力学と運動の理想のバランスを特徴とする、ミケランジェロの『ピエタ』、『ダビデ像』が挙げられる。またヴェネツィアでは、ジョルジョーネや若きティツィアーノの、落ち着いた雰囲気・鮮やかな色彩が盛期ルネサンスの好例とされる。

広義にとらえるなら、盛期ルネサンスは創造性豊かな天才の大爆発と言えるだろう。超一流とは言えないかも知れないが、多くの画家たちがこの時期に活動した。たとえば、フラ・バルトロメオやマリオット・アルベルティネッリは、彼らの絵画技法の完全な調和と全体の抑制が注目に値する作品群を制作した。また、後期のミケランジェロやアンドレア・デル・サルトコレッジョの作品に見られる、長く伸びたプロポーションと誇張されたポーズは、美術史において後期ルネサンスと見なされるマニエリスムの到来を予感させるものである。

その盛期ルネサンスも、1520年のラファエロの死と1527年ローマ略奪によって終焉をもたらされた。16世紀イタリアでは、イタリア戦争がこの時代に頂点に達し、盛期ルネサンスはイタリアでの活力が失われ、同時にヨーロッパ諸国へと拡散していったのである。

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盛期ルネサンス

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/24 04:35 UTC 版)

ルネサンス建築」の記事における「盛期ルネサンス」の解説

フィレンツェ開花したルネサンス建築成熟するのは、1450年頃から1499年までスフォルツァ家によって支配されミラノ、そしてフランス軍によるミラノ占領の後ブラマンテ移り住んだローマにおいてである。 1450年以降スフォルツァ家フィレンツェ同盟関係結んだことによって、それまでゴシック様式段階に留まってい都市には、まずミケロッツォ・ディ・バルトロメオアントニオ・フィラレーテジョヴァンニ・アントニオ・アマーデオらによってルネサンス建築取り入れられた。当時ミラノにはまだ多くローマ建築遺構が遺っていたらしく、これらがルネサンス建築発展果たした役割大きいと考えられている。しかし、これらの遺物があるにもかかわらず初期ルネサンス導入にあたっては、職人たちの間にかなりの抵抗があり、彼らが設計したポルティナーリ礼拝堂オスペダーレ・マッジョーレコッレオーニ礼拝堂などは、かなりの修正加えられ結果的にルネサンスとは言えない建築改変された。 ルネサンス建築本格的な導入は、1481年頃に、ドナト・ブラマンテレオナルド・ダ・ヴィンチという二人芸術家この街滞在したことによって始まる。ブラマンテ1477年頃にサンタ・マリア・プレッソ・サン・サーティロ聖堂の建設建築仕事をはじめており、レオナルドは、スケッチなどから1480年代建築関心を持つようになった考えられる。彼らは相互に影響与えあい、1492年には、ブラマンテ設計によるサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ聖堂東部起工され、その食堂ではレオナルドが盛期ルネサンス最初作品とされる最後の晩餐』に着手したレオナルドは、人体解剖を行う際に用いた技術的な素描建築分野応用し鳥瞰図などを用いた実用的な設計製図導入することに寄与した彼の関心数学的比例あるいは工学的部分であって美学的要素古代遺構についてはほとんど興味を持たなかったようである。また、彼はブルネレスキアルベルティ建築もあまり知ってはいなかったようである。しかし、ブラマンテ初期の設計方法遠近法観点絵画の手法を応用したもの)であったこと、そして、その後ブラマンテ建築思慮入れると、レオナルド機械的思索的な概念は、ブラマンテ設計手法大きな影響与えた考えられるレオナルド建築のスケッチには、ブラマンテサン・ピエトロ大聖堂平面想起させるものもあり、レオナルドブラマンテ通してルネサンス建築与えた影響は、大きと言える1499年フランス占領されミラノからローマ避難したブラマンテは、教皇ユリウス2世召し抱えられた。彼は、ローマからカンパーニア渡って残る遺跡実測精力的に行い、これらの遺構と自らの想像力駆使して聖ペテロ殉教地(と伝えられる場所)に立つサン・ピエトロ・イン・モントリオ聖堂テンピエット設計した後世多く建築家は、このマルティリウムを古代ローマ偉大な建築同等のものと見なした。彼はテヴェレ河畔にあるウェスタ神殿(本来はヘラクレス・ウィクトル神殿であるが)を拠り所としたのであるが、その単純な模倣ではなく英雄的な神の神殿用いられドーリア式オーダー使って使徒聖ペテロにふさわしい古典的な形態与えた。つまり、ブラマンテローマ建築をその想像力によって拡張させ、ルネサンス建築古典建築の手法を完全に再生した信じさせるにたる美学確立したのであるブラマンテ壮大さインノケンティウス8世建設したヴィッラ・ディ・ベルヴェデーレとヴァティカーノ宮殿を結ぶ宮殿増築においても遺憾なく発揮された。ブラマンテはその中庭パレストリーナのフォルトナ・プリミゲニア神域モティーフ取り入れ壮大なファサードデザインした。しかし、ブラマンテデザインは、後世増築などによって、今日ではほとんど分からなくなっている。邸宅については、もうひとつ主要な作品伝えられる1517年ラファエロ・サンティ購入した通称ラファエロの家」ことパラッツォ・カプリーニである。こちらも現存はしていないが、文献図版から知られるその構成は、1階ルスティカとし、2階ピアノ・ノービレを、ペディメント付き開口部オーダー装飾したもので、以後邸宅建築はほとんど全てこのデザイン模倣または下敷きにしていると言っても過言ではないブラマンテユリウス2世とともにサン・ピエトロ大聖堂再建計画練ったのは1505年頃から死に至る1514年までの間である。基石1506年置かれはしたが、旧聖堂はすでに1000年上の歴史持ち、それ自体神聖視されていたため、再建行程は困難を極め、また慎重に行われたブラマンテ計画案は、ウフィッツィ美術館収蔵されている、いわゆる羊皮紙プラン」と呼ばれるもので、これは完全なギリシア十字平面であった可能性が高い(発見されメダル立面図からそのように推定されている)。工事ブラマンテによってドーム支え四本主柱位置とこれに架けるアーチ決定され実行されたが、「羊皮紙プラン」の構造体では強度が全く足りなかった。さらにブラマンテ死去によって、建設は完全に混乱に陥り、ブラマンテ死後作業20年以上もほとんど進展しなかった。ブラマンテ死後サン・ピエトロ大聖堂主任建築家となったのは、彼の理念継承したフラ・ジョコンド、ラファエロ・サンティバルダッサーレ・ペルッツィアントニオ・ダ・サンガッロ・イル・ジョヴァネである。ラファエロブラマンテのもとで設計行い、サンタ・マリア・デル・ポポロ聖堂やサンテリージョ・デッリ・オレーフィチ聖堂など、ブラマンテのものとされるいくつかの建築について彼の名が結び付けられている。サンタ・マリア・デル・ポポロ聖堂キージ家礼拝堂では、純粋な形態のなかに装飾豊かさを見ることができ、盛期ルネサンスに女性的な繊細さ優雅さ与えたラファエロ嗜好現れている。サンガッロが設計し1518年起工したモンテプルチアーノ近郊のマドンナ・ディ・サン・ビアージョ聖堂は、さらにブラマンテ直接的な影響を見ることができる。ほとんど同じ平面構成ありながら彼のジュリアーノ・ダ・サンガッロ設計したプラートのサンタ・マリア・デッレ・カルチェッリ聖堂比較すると、初期ルネサンスと盛期ルネサンスの違いは明確である。しかし、彼らの誰もブラマンテ巨人的な壮大さついていくことができず、ミケランジェロ計画参加するまで、工事混迷し、まったくはかどらなかった。

※この「盛期ルネサンス」の解説は、「ルネサンス建築」の解説の一部です。
「盛期ルネサンス」を含む「ルネサンス建築」の記事については、「ルネサンス建築」の概要を参照ください。

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