盛期〜後期バロック、古典派
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「リュート」の記事における「盛期〜後期バロック、古典派」の解説
17世紀フランスでは、イタリアとは違ったリュート音楽が形成された。舞曲を中心としながらも、スティル・ブリゼとよばれる分散和音奏法を用いた独特の優雅な音楽を形成した。いくつかの舞曲を一組にする組曲が定着したのもこの頃である。分散和音による和声進行で生じる2度の掛留は4度を基本とするルネサンス調弦ではきわめて演奏が困難であるため、さまざまな新しい調弦法(スコルダトゥーラ)が試みられたが、「ニ短調調弦」と呼ばれる調弦法がやがて標準になった。スティル・ブリゼはバッハに至るまで続くフランス風後期バロックの音楽、特に鍵盤音楽に多大な影響を与えた。この時代では、ルネ・メッサンジョー、エヌモン・ゴーティエ、ドニ・ゴーティエ、シャルル・ムートン、ジャック・ガロー、ロベール・ド・ヴィゼーなどの作品が有名である。 17世紀のイギリスにおいてもリュートは依然として奏されていたが、フランスの影響が多大であり、フランス出身のジャック・ゴルティエ(英語版)が名声を博した。トーマス・メイスが著した『音楽の記念碑』(Musick's Monument)は、一部がリュートの教本になっており、当時の奏法を知る上で貴重な文献となっている。 17世紀末にはフランスやイギリスではリュートは急激に廃れていったが、18世紀にもドイツ周辺においては幾人かの優れたリュート奏者がいた。これらの地域でも始めはスティル・ブリゼの影響が大きかったが、ボヘミアの伯爵であったヤン・アントニーン・ロジーらの作品に見られるように、次第にイタリアのカンタービレ(歌うような)様式を取り込むようになった。ドイツのリュート音楽で最大の巨匠とされるのは、ドレスデンの宮廷で音楽家として最高給を得ていたシルヴィウス・レオポルト・ヴァイスであり、様式・技巧の面でバロックリュートを完成に導いた。また、リュートのコース数を13コースに拡張したのも、ヴァイスの創案によるものとされる。プロイセンの宮廷リュート奏者エルンスト・ゴットリープ・バロンは、ヨハン・マッテゾンのリュート批判に対する応酬として、リュートに関する重要な書物『楽器リュートの歴史的・理論的・実践的研究』(Historisch-Theoretische und Practische Untersuchung des Instruments der Lauten、邦題『リュート ―神々の楽器—』)を著述した。ヴァイスと同時代人のヨハン・ゼバスティアン・バッハもごく少数のリュート用と思われる作品を残しているが、残されている自筆譜はタブラチュアではなく通常の楽譜で記譜されている。このことから、バッハ自身はリュートは演奏しなかったという説が強い。 18世紀のイタリアでは、アントニオ・ヴィヴァルディがリュート協奏曲ニ長調 Rv.93(英語版)と2つの三重奏曲を残し、今日では貴重なレパートリーとして演奏されている。 ヴァイス以降も全くリュートが弾かれなくなったわけではなく、アダム・ファルケンハーゲンやベルンハルト・ヨアヒム・ハーゲンらは高い水準のリュート曲を残した。あまり知られてはいないが、古典派音楽の時代においても、カール・コハウトなどニ短調調弦のリュートを弾く音楽家は存在した。近代以前の曲で、ニ短調調弦のリュートのために書かれた最後の曲と思われるのは、クリスティアン・ゴットリープ・シャイドラー(1752 - 1814)の「モーツァルトの主題による変奏曲」である。
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