プラート【Prato】
プラート【プラート】(草花類)
※登録写真はありません | 登録番号 | 第5413号 |
登録年月日 | 1997年 2月 28日 | |
農林水産植物の種類 | ゆり | |
登録品種の名称及びその読み | プラート よみ:プラート |
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品種登録の有効期限 | 15 年 | |
育成者権の消滅日 | ||
品種登録者の名称 | ヘブルデルス・フレッター・エン・デン・ハーン | |
品種登録者の住所 | ウフストヘースタアベッハ 202a,2231 BD レインスブルフ,オランダ王国 | |
登録品種の育成をした者の氏名 | フローアフレッター | |
登録品種の植物体の特性の概要 | ||
この品種は,「アビニョン」に出願者所有の実生種を交配して選抜,育成されたものであり,花はやや大輪で鮮赤橙色の切花向きの晩生種である。 草丈は75~99cm,茎の直径は5.0~9.9mm,上部の色は淡褐,中部及び下部の色は褐,毛じは無,節間長は茎の中央部は10~19mm,止葉下は40~59mmである。葉序は3/8,葉の全体の形は披針形,葉身中央部のそりは外反転,先端部のそりは水平,ねじれは無,長さは9~11cm,幅は10~19mm,数は中,着生角度は30~59゜である。つぼみの形はⅤ型,花の向きは15゜未満,花房の形状は散形花序,花形はスカシユリ型,一重・八重の別は一重である。花径は150~179mm,内花被の長さは9~12cm,幅は50~59mm,外花被の長さは9~11cm,幅は30~39mmである。花色は花弁の基部は明赤橙(JHS カラーチャート1005),地色,中肋部及び縁部は鮮赤橙(同1006),裏面は濃黄ピンク(同 1011)である。内花被1枚の斑点の数は1~9,外花被は0,つぼみの色は穏緑黄(同 2910),内花被の形はⅤ型,外花被の形はⅥ型,内花被の反転の程度はⅧ型,外花被の反転の程度はⅥ型,花被のねじれは1/8未満,花被上の乳状突起は無である。やくの色は赤,花粉の色は赤褐,第1花梗の長さは30~59mm,花梗への葉の着生は有,第1花梗の向きは30~59゜,花の香りは中,開花期は晩である。 「エゾメノコ」と比較して,茎の中部及び下部の色が褐であること,葉数が少ないこと,花弁の地色が鮮赤橙であること,内花被1枚の斑点の数が少ないこと等で,「エスカパダ」と比較して,葉数が少ないこと,花房の形状が散形花序であること,花弁の地色が鮮赤橙であること等で区別性が認められる。 | ||
登録品種の育成の経過の概要 | ||
この品種は,1982年に出願者のほ場(オランダ王国)において,「アビニョン」に出願者所有の実生種を交配し,1984年にその実生の開花株の中から選抜,以後,増殖を行いながら特性の調査を継続し,1989年にその特性が安定していることを確認して育成を完了したものである。 |
プラート
プラート
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/08/30 06:24 UTC 版)
プラート Prato |
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行政 | |||||
国 | ![]() |
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州 | ![]() |
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県/大都市 | ![]() |
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CAP(郵便番号) | 59100 | ||||
市外局番 | 0574 | ||||
ISTATコード | 100005 | ||||
識別コード | G999 | ||||
分離集落 | #分離集落参照 | ||||
隣接コムーネ | #隣接コムーネ参照 | ||||
公式サイト | リンク | ||||
人口 | |||||
人口 | 198034 人 (2024-01-01 [1]) | ||||
人口密度 | 2,029.2 人/km2 | ||||
文化 | |||||
住民の呼称 | pratesi | ||||
守護聖人 | 聖ステーファノ (Santo Stefano) |
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祝祭日 | 12月26日 | ||||
地理 | |||||
座標 | 北緯43度52分50.93秒 東経11度05分47.62秒 / 北緯43.8808139度 東経11.0965611度座標: 北緯43度52分50.93秒 東経11度05分47.62秒 / 北緯43.8808139度 東経11.0965611度 | ||||
標高 | 61 (30 - 818) [2] m | ||||
面積 | 97.59 [3] km2 | ||||
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プラート県におけるコムーネの領域
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プラート(伊: Prato ( 音声ファイル))は、イタリア共和国トスカーナ州北西部の都市で、人口約200,000人の基礎自治体(コムーネ)。プラート県の県都である。伝統的な繊維業の町である。
1950年代以降、プラートは多くの移民を受け入れてきた。最初は南イタリア出身者、次いで外国移民、現在は1980年代後半から移り住み始めた中国人移民が最大のコミュニティーをつくっている。
地理
位置・広がり
隣接コムーネ
隣接するコムーネは以下の通り。括弧内のPTはピストイア県、FIはフィレンツェ県所属を示す。
- アリアーナ (PT)
- カレンツァーノ (FI)
- カンピ・ビゼンツィオ (FI)
- カルミニャーノ
- モンテムルロ
- ポッジョ・ア・カイアーノ
- クアッラータ (PT)
- ヴァイアーノ
気候分類・地震分類
プラートにおけるイタリアの気候分類 (it) および度日は、zona D, 1668 GGである[4]。 また、イタリアの地震リスク階級 (it) では、zona 3 (sismicità bassa) に分類される[5]。
歴史
古代
考古学的発見から、プラート周辺の丘陵には旧石器時代から人が住んでいたことが証明されている。平野はのちにエトルリア人に植民地化された。1998年、近隣のカンピ・ビゼンツィオで、かつてあった名前の知られていない都市の遺跡が発見された。その都市は中程度の規模で、既に羊毛と繊維業の中心地であった。一部の学者によれば、神話上の都市といわれてきたカマル(en:Camar)ではないかといわれている。エトルリア都市は紀元前5世紀まで存続したが、その後打ち捨てられた。原因は不明である。一帯を後に支配するようになるのは古代ローマ人であり、彼らはカッシア街道(en:Via Cassia)を通ってやってきたが、なんの定住地もつくらなかった。
中世
中世初期、東ローマ帝国とロンゴバルド人支配が続いた。プラートとしての歴史は、10世紀に2つの村ボルゴ・アル・コルニオとカストルム・プラティ(プラートの城)が知られるようになってから始まる。続く一世紀のうちに2つの村は城の領主アルベルティ家の元で統合された。アルベルティ家は、神聖ローマ帝国よりプラート伯の称号を授かっていた。同じ頃、平野は干上がり、水力システムを調節しビセンツィオ川の水を利用する試みがグアルキエラエ(gualchierae、古い工業用織物機械)を動かすためにつくられた。
マティルデ・ディ・カノッサ軍による包囲戦の後(1107年)、アルベルティ家はビセンツィオ谷にある一族の要塞へ退却した。プラートは、自由コムーネとしてその時から発展することができた。2世紀の間、繁栄する繊維産業と、聖遺物サクラ・チントラ(it:Sacra Cintola)の存在に刺激されて人口は15,000人に達した。2つの新しい市壁列は、それぞれ12世紀半ばと14世紀初頭に建てられなければならなかった。1326年、フィレンツェ共和国の拡大に反対するため、プラートはナポリ王ロベルトをシニョーリ(僭主)として自発的に従属した。しかし、1351年2月23日、ナポリ女王ジョヴァンナ1世・ダンジョは、17,500フローリン金貨と交換に、プラートをフィレンツェへ売り渡した。
近代から現代
1512年、カンブレー同盟戦争の最中、プラートは教皇ユリウス2世と神聖ローマ皇帝カール5世によって召集されたスペイン軍により略奪された。彼らはメディチ家のためにフィレンツェ近郊の都市を取り戻そうとしたのである。プラート略奪の過酷さがフィレンツェ共和国の降伏をもたらし、メディチ家支配を復活させた。軍は市街で50,000人ものプラート市民を虐殺した。
1653年、プラートに都市特権が授けられ、カトリックの司教座が置かれた。市は18世紀の間に特に繁栄し、美しくなった。
19世紀のリソルジメント後、プラートは織物において特に国内1位の工業中心地となった(歴史家エマヌエーレ・レペッティはプラートを『イタリアのマンチェスター』と称した)。1901年に人口は50,000人に増加し、2001年には180,000人となった。20世紀から市は多くの移民を受け入れてきた。最近は、10,000人から20,000人いるという中国人コミュニティー(温州市出身者が多い)を抱えている。
行政
分離集落
プラートには以下の分離集落(フラツィオーネ)がある。
- Figline di Prato, Cafaggio, Coiano, La Querce, Maliseti, Mezzana, Narnali, Paperino, San Giorgio a Colonica, Santa Lucia, Santa Maria a Colonica, Viaccia, Vergaio
みどころ

- プラート大聖堂 - 10世紀に建てられたサント・ステファノ教会を前身とする。現在の建物は12世紀に建てられたロマネスク様式のもの。14世紀、聖母マリアが身につけていたベルト(it:Sacra Cintola)がもたらされた。ドナテッロ作の説教壇、フィリッポ・リッピ作のフレスコ画を所蔵する。
- パラッツォ・プレトーリオ(Palazzo Pretorio) - 13世紀の赤煉瓦の建物。一部は後期ゴシック時代に白い石を用いて建てられている。
- インペラトーレ城(en:Castello dell'Imperatore) - 13世紀、皇帝フリードリヒ2世によって建てられた。のちに市壁の一部に組み込まれた。現在は美術館と教育センターが入っている。
- サンタ・マリア・デッレ・カルチェリ聖堂(it:Basilica Santa Maria delle Carceri) - 1484年、ロレンツォ・デ・メディチがジュリアーノ・サンガッロに命じて建てさせた。ブルネレスキのパッツィ礼拝堂に触発された、ギリシャ十字型の平面図を採用。
スポーツ
サッカー
プロサッカークラブであるACプラートの本拠である。2017-18シーズンはセリエC(3部リーグ)に属している。
中国からの移民
中国(特に温州)からの移民が増えていて、そのほとんどが服飾産業に従事している。現在ではミラノに次いでイタリア第二のチャイナタウンを形成している。[6]
著名な出身者
- クリスティアン・ヴィエリ
- ユリ・ケキ
- フランチェスコ・ディ・マルコ・ダティーニ
- イヴァ・パチェッティ
- フィオレンツォ・マーニ
- フィリッピーノ・リッピ
- パオロ・ロッシ - サッカー選手。
- ロベルト・ビアジーニ - ファッションデザイナー
- クララ・カラマイ - 女優
姉妹都市
ナムディン, ベトナム
アルベマール郡, バージニア州、 アメリカ合衆国
ルーベ, フランス
常州市, 中国
エーベンゼー, オーストリア
ヴァンゲン, ドイツ
サラエヴォ, ボスニア・ヘルツェゴヴィナ
ビル・ラフルー, サハラ・アラブ民主共和国
パビアニツェ, ポーランド
トマシュフ・マゾヴィエツキ, ポーランド
ハラレ、ジンバブエ
脚注
- ^ “Popolazione residente per sesso, età e stato civile al 1° gennaio 2024” (イタリア語). 国立統計研究所(ISTAT). 2024年5月24日閲覧。メニューでVista per singola areaを選択。Anno:2024, Ripartizione:Centro, Regione:Toscana, Provincia:Prato, Comune:Prato を選択
- ^ 国立統計研究所(ISTAT). “Tavola: Popolazione residente - Prato (dettaglio loc. abitate) - Censimento 2001.” (イタリア語). 2013年11月11日閲覧。
- ^ 国立統計研究所(ISTAT). “Tavola: Superficie territoriale (Kmq) - Prato (dettaglio comunale) - Censimento 2001.” (イタリア語). 2013年11月11日閲覧。
- ^ “Tabella dei gradi/giorno dei Comuni italiani raggruppati per Regione e Provincia”. 新技術エネルギー環境局(ENEA) (2011年3月1日). 2017年1月1日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年9月20日閲覧。
- ^ “classificazione sismica aggiornata al aprile 2023” (xls). https://rischi.protezionecivile.gov.it/it/sismico/attivita/classificazione-sismica/. イタリア市民保護局. 2023年12月16日閲覧。
- ^ The Chinese Workers Who Assemble Designer Bags in Tuscany(The New Yorker誌、2018年4月号)
外部リンク
プラート
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/24 16:21 UTC 版)
「アレッサンドロ・ディアマンティ」の記事における「プラート」の解説
1999年に生まれ故郷のクラブであるACプラートでデビュー。エンポリFCやACFフィオレンティーナへのレンタル移籍を経験した後、2004年にUCアルビーノレッフェに共同保有権が譲渡される。同チームで1シーズン半プレーした後、2006年にプラートが保有権を買い戻した。2006-07シーズンは3シーズン振りに復帰した古巣でセリエC2を舞台に戦い、31試合で15得点を挙げた。
※この「プラート」の解説は、「アレッサンドロ・ディアマンティ」の解説の一部です。
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