フィリッポ・ブルネレスキとは? わかりやすく解説

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ブルネレスキ【Filippo Brunelleschi】


フィリッポ・ブルネレスキ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/07 00:55 UTC 版)

フィリッポ・ブルネレスキFilippo Brunelleschi, 1377年 - 1446年4月15日)は、イタリア金細工師彫刻家、そしてルネサンス最初の建築家である。本名はフィリッポ・ディ・セル・ブルネッレスコ(Filippo di ser Brunellesco=ブルネッレスコ氏のフィリッポ)、ないしはフィリッポ・ディ・セル・ブルネッレスコ・デ・ラーピである[1]が、もっぱらその短縮形であるフィリッポ・ブルネレスキの名で呼ばれる。主にフィレンツェで活動を行った。


注釈

  1. ^ 木工職人であるマネット・アンマナティーニ(通称、エル・グラッソ)を、計略を駆使して自分がマネットではなく、マッテオという別人になったと信じ込ませた[2]。1409年の話とされる[3]
  2. ^ ラテン語の教育に力点が置かれはじめるのは1400年以降で、レオン・バッティスタ・アルベルティが1435年に記した『家族論』では教育の基礎とされているが、ブルネレスキの幼少期にはラテン語を学ぶ者は少なく、医者、公証人、聖職者などになる者に限られていた[7]
  3. ^ その他、聖アウグスティヌスないし聖アンブロジウス、および福音記者聖ルカなどを作成したとされるが、マネッティは彫像の委託を受けたとしているものの、その作品は挙げておらず[10]、ブルネレスキの作成したものであるかどうかは確定されていない。
  4. ^ ルネサンスの透視図法の表現は、ドナテッロによるオル・サンミケーレ聖堂の『聖ゲオルギウス』の台座に彫られた浮彫りが最初とされ、この作品が1417年に作製されているため、ブルネレスキによる透視図法の発見は、それ以前の1413年から1416年頃と推定されている[19]。ただし、ブルネレスキとは別に、ロレンツォ・ギベルティも光学(透視図法)の正統な発展の中に自身を位置づけており、実際に1425年から開始されたサン・ジョヴァンニ洗礼堂の第二青銅扉、通称『天国の門』はすべて透視図法を駆使した表現となっている。
  5. ^ マネッティによれば、ローマへの出立は彫刻の技法と感性を獲得するためであったが、やがてローマ建築に感化されるようになったとされている[20]。ヴァザーリは、最初からドナテッロが彫刻、ブルネレスキが建築の研究を行うためにローマに向かったとしており、特にブルネレスキは、この時点で大聖堂のドーム構築の方法を研究することを決意していたとする[14]
  6. ^ 少なくとも1408年から1414年までのローマは、フィレンツェの人間にとって安全な場所とは言えなかった。1408年にフィレンツェ共和国とナポリ王国との戦争が始まり、ローマはナポリ王ラディズラーオ1世に支配される。ジョヴァンニ・ディ・ビッチの支援によって教皇となったヨハネス23世ルイ2世・ダンジューとともにローマを奪還するが、1413年にラディズラーオ1世がヨハネス23世とルイ2世・ダンジューを排除し、彼の命により、ローマにあるフィレンツェ人の全財産が没収されている[24]
  7. ^ ヴァザーリは、この金銭を彼がローマに行かず、フィレンツェに留まるよう説得するための心付けであったとしている[28]
  8. ^ マネッティは、クーポラの建設が公開での競技となったのは、ブルネレスキの助言によるものとしている[30]
  9. ^ バルバドーリ礼拝堂は、ブルネレスキ初期の作品であることに間違いはないが、その造営年代は1417年から1430年まで諸説ある。マネッティによれば聖水盤も作られたらいしが、付柱とドーム以外は後の改装により撤去されている[36]
  10. ^ 1418年頃の建立とされるが、現存しない。
  11. ^ 1421年にブルネレスキに対して設計料の支払いが行われ、 1424年には工事監理者に指名されており[39]1427年まで監理を行った。その後、捨子保育院の営繕管理人であるフレンチェスコ・デッラ・ルーナに引き継がれた。この建築物のファサードについて、いくつかの部分がフレンチェスコによって意匠上、間違った納まりになったとされている[40][23]
  12. ^ ギベルティは、史料では少なくとも1432年までブルネレスキと同格の地位であったことから、彼らの間に敵対心があったかどうかは定かではない。ただし、ギベルティ派の工人たちがストライキを起こしているとされるので[46]、彼らの周囲に派閥争いのようなものがあったことは十分に考えられる。
  13. ^ ヴァザーリは、聖具室の設計委託時に、聖堂の建設をメディチ家が行うように説得したのはブルネレスキとしており、当然、本体の設計を彼が担うことになったとしている[51]
  14. ^ ブルネレスキを妬む者により、彼が考案したものとは異なる計画になったとされている[53][54]
  15. ^ 1425年1月2日に、ギベルティがサン・ジョヴァンニ洗礼堂の第二扉の制作委託受けたことが影響したものか。
  16. ^ 同じ頃にドーム基部(ドラム上部)の周囲を覆う張出し回廊の図面を作成したが、ブルネレスキが作成した図書は散逸してしまったとされる[61]。この回廊は1515年にバッチョ・ダーニョロによって一面のみ構築されるが、ミケランジェロに「虫かご」と酷評され、現在も未完成のまま残る。
  17. ^ マネッティは、周到な準備があったにも関わらず、彼の死後にランターンのデザインが歪められたと手厳しく非難している[63]
  18. ^ この建物もブルネレスキを妬む者により、計画が改変されたとされるが[67]、ジュリアーノ・ダ・サンガッロがブルネレスキによるものと思われる平面図のスケッチを残している。
  19. ^ 1424年に導入された制度で、世帯主は資産や債務の完全な一覧として、カタスト(資産申告書)を作成する義務を負った。保管されている台帳は膨大な量であるが、これは当時のフィレンツェを知る上で、貴重な資料となっている。
  20. ^ ただし、描いたのは木工職人のグラッソと記述され、ブルネレスキは寄木細工職人にも遠近法を教示していたとされる[74]ので、彼による指示でグラッソが描いたのか、ブルネレスキとは関係のない別の絵なのかはっきりしない。
  21. ^ 実際にはブルネレスキは幾何学的な線遠近法の作図方法は知っておらず、ジョット・ディ・ボンドーネらが用いた中世以来の経験的手法、もしくは鏡に映った像をそのまま写し取って二枚の板絵を仕上げたにすぎない可能性もあるとされる[77]
  22. ^ ウッチェッロが透視図法を熱心に研究していたことは有名[81]で、ヴァザーリによれば、彼は5人の秀でた芸術家の肖像を描いたが、そのうちの一人がブルネレスキであったとしている[82]
  23. ^ 透視図法による視点、消失点の設定と、これから導かれる視野の広がりの論理的手続きが、事物の規則性や比例関係の決定、構造までをも秩序づけるとされる[83]
  24. ^ カルロ・アルガンは、ブルネレスキの建築を透視図法に絡めて評価しており、例えば大聖堂のクーポラも、ゴシック建築に見られる先頭アーチによるものであるが、その頂点が消失点、ドラムから立ち上がるリブが視錐として、透視図法の解釈によって再構築されているとする[84]
  25. ^ 透視図法による建築空間の表現が確立される15世紀末まで、建築の内部空間を視覚化する表現は模型であって、素描ではなかった[85]。また、逆に透視図法によって描かれた空間から、実際の建築空間が想起されるような事象も、それ以降のことである[86][87]。なお、透視図法の成り立ちと作図方法を理論的に構築したレオーン・バッティスタ・アルベルティは、『絵画論』の中で、画家にとって必要不可欠な透視図法も、建築家にとっては必ずしも必須の要素ではない、としている。アルベルティは、『絵画論』をブルネレスキに献呈したうえでこのように述べており、透視図法の説明においても、ブルネレスキの板絵には言及していない。
  26. ^ なお、マネッティはこの変更を行った人物の名を記していない。
  27. ^ マネッティによれば、ブルネレスキの一族はラーピ家と呼ばれており、フィレンツェ市内にいくつかの住宅を所有していたとする[107]
  28. ^ ブルネレスキが関わったとする解釈では、サン・ロレンツォ聖堂の計画に伴って、メディチ家のパラッツォを造営する計画が持ち上がり、その際にブルネレスキがコージモ・デ・メディチに提示したものが豪華すぎるとして却下された[110]のだが、その設計がパラッツォ・ピッティの計画に流用された、とする。

出典

  1. ^ a b マネッティ(浅井、1989)p61。
  2. ^ マネッティ(浅井、1989)グラッソ物語。
  3. ^ マネッティ(浅井、1989)p91。
  4. ^ ヴァザーリ(森田、2003) p114。
  5. ^ デジタル大辞泉の解説”. コトバンク. 2018年4月8日閲覧。
  6. ^ 池上英洋『西洋美術史入門』筑摩書房、2012年、158頁。ISBN 978-4-480-68876-7 
  7. ^ ブラッカー(森田・松本、2011) pp294-295。
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  9. ^ ヴァザーリ(森田、2003)p107。
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  74. ^ ヴァザーリ(森田、2003) p108。
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  107. ^ マネッティ(浅井、1989)pp61-62。
  108. ^ マネッティ(浅井、1989)p70。
  109. ^ ヴァザーリ(森田、2003) p137。
  110. ^ ヴァザーリ(森田、2003) pp136。


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