エルコレ・デ・ロベルティとは? わかりやすく解説

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エルコレ・デ・ロベルティ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/09 03:52 UTC 版)

エルコレ・デ・ロベルティ『ジョヴァンニ2世・ベンティヴォーリョ』(1480年頃)ナショナル・ギャラリー (ワシントン)

エルコレ・デ・ロベルティ(Ercole de' Roberti, 1451年頃 - 1496年)またはエルコレ・フェッラレーゼ(Ercole Ferrarese)、エルコレ・ダ・フェラーラ(Ercole da Ferrara)は、初期ルネサンスイタリア画家フェラーラ派に属する。ジョルジョ・ヴァザーリの著書『画家・彫刻家・建築家列伝』に、彼の伝記も書かれている。

生涯

後にはフェラーラ公国エステ家宮廷画家にまで登り詰めることになるエルコレは、エステ城の門番の子として生まれた。

エルコレ17歳の時(1473年)には、フェラーラを出て、ボローニャフランチェスコ・デル・コッサの工房で働いていた。(ヴァザーリによると、デル・コッサではなくロレンツォ・コスタの徒弟をしていたということだが、エルコレはコスタより数歳年上なので、それはありえそうにない)[1]。エルコレがスキファノイア宮殿(en:Palazzo Schifanoia)のフレスコ画を共同制作したことは知られている。

エルコレがコズメ・トゥーラの跡を継いでエステ家の宮廷画家になったのは、1486年頃のことである。エルコレの役割はただ絵を描くだけではなかった。アルフォンソ1世・デステのローマ教皇訪問に随行させられ、マントヴァで催されたイザベラ・デステの結婚式では衣裳管理の監督をさせられ、ひょっとしたらサラミまで作らせられたかも知れない[2]

エルコレの最期について、ヴァザーリは次のように書いている。

エルコレはワインに目がなかった。深酒することはしょっちゅうで、それが彼の人生を縮めてしまった。40歳までは事故もなく人生を謳歌していたろうに。ある日、脳卒中に見舞われて、彼は短い生涯を終えてしまった。[1]

作品

エルコレの絵はそれほど多くはない。人生が短かったこともあるし、破棄されてしまったせいでもある。

円熟期のエルコレの、早い時期の作品というと、ボローニャのサン・ペトロニオ教会のグリフォーニ礼拝堂のために制作したものだろう。祭壇上の飾台に描かれた『聖ビセンテ・フェレルの奇跡』(1473年頃。現在はバチカン絵画館にある[3])と、デル・コッサから任された祭壇画のための側面の片蓋柱である。

1480年、エルコレはラヴェンナのサンタ・マリア・イン・ポルト聖堂のために、巨大な祭壇画『聖者たちと玉座の聖母子』を制作した。これは現在、ミラノブレラ美術館にある。同じ頃、ジョヴァンニ2世・ベンティヴォーリョ(en:Giovanni II Bentivoglio)とジネーヴラ・ベンティヴォーリョの肖像画も描いていて、これは現在ワシントンD.C.ナショナル・ギャラリー (ワシントン)にある。

『ポルキア(ポーシャ)とブルータス』(1486年〜1490年頃)はフェラーラ公夫人エレオノーラ・アラゴンのために描かれたものだと言われていて、現在、テキサス州フォート・ワースのキンベル美術館にある[4]。また、『荒野の聖ヒエロニムス』はロサンゼルスゲティ・センターにある。

エルコレ・デ・ロベルティ『聖ビセンテ・フェレルの奇跡』(1473年頃)バチカン絵画館

ギャラリー

脚注

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