アントニオ・フォンタネージとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > デジタル大辞泉 > アントニオ・フォンタネージの意味・解説 

フォンタネージ【Antonio Fontanesi】

読み方:ふぉんたねーじ

1818〜1882]イタリア画家バルビゾン派影響を受け、風景画すぐれていた。明治9年(1876)来日工部美術学校教授となり、浅井忠(あさいちゅう)・小山正太郎などを指導

フォンタネージの画像
フォンタネージ/http://bit.ly/2E311lg
フォンタネージの画像
トリノポー河畔(1870頃)/リッチ・オッディ近代美術館http://bit.ly/355coVX
フォンタネージの画像
牧場への道(1800年代中頃)/サバウダ美術館http://bit.ly/2Yvzxya
フォンタネージの画像
泉にて(1867-69)/ローマ国立近代美術館蔵http://bit.ly/2YwN1JU
フォンタネージの画像 フォンタネージの画像
工部美術学校送別写真(1878)前列左から3番目がフォンタネージ。その後ろが小山正太郎/「日本の美術350所収http://bit.ly/2sbSABo

アントニオ・フォンタネージ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/09 13:15 UTC 版)

アントニオ・フォンタネージ
Antonio Fontanesi
誕生日 1818年2月23日
出生地 イタリア、レッジョ・エミリア
死没年 1882年4月17日
死没地 イタリア、トリノ
テンプレートを表示

アントニオ・フォンタネージ(Antonio Fontanesi 1818年2月23日 - 1882年4月17日)は、イタリア画家

1876年明治9年)に日本で開校した工部大学校お雇い外国人教師で、日本人に洋画を指導した。

略歴

イタリア北部のレッジョ・エミリアに生まれる。市立の美術学校で古典的な風景画を学び、舞台背景や壁画装飾を手がける。1848年の第一次イタリア独立戦争英語版にも従軍したが、ガリバルディの解放軍の敗北によってスイスルガノへと逃れ、1850年からはジュネーヴに移りアトリエを開設する。戦後にはスイスをはじめとしてヨーロッパ各地を放浪し、風景画で生計を立てながら孤独とロマンティズムを身につけていったことが、後の叙情的な作風につながっていった。

1855年にはフランスパリに赴き、バルビゾン派の影響を受ける。また、オーギュスト・ラヴィエ(fr:François-Auguste Ravier)らリヨン派の画家とも交流を深め、ロマン主義的な作風が完成した。フィレンツェ印象主義を学び、1869年にはトリノの王立アルベルティナ美術学校で風景画教師を務める。

58歳のとき芸術を含めヨーロッパの近代文明の導入をはかっていた太政官政府(明治政府)に、お雇い外国人として招かれ、工部大学校の画学教師になる。だが西南戦争後の政府が財政難に陥ったため、フォンタネージは思うような指導ができないと見切りを付け、また病により体調が悪化したために1878年(明治11年)9月に帰国した。帰国後は再びアルベルティナ美術学校教師を務め、1882年にトリノで死去。

工部美術学校の送別写真(1878年)フォンタネージ(前列左から3番目の人物)の真後ろが小山正太郎、その向かって右が松岡寿[1]

日本への影響

フォンタネージの在日期間は短かったが、本格的な美術教育を行い、その力量は高く評価されていた。指導を受けた当時の在学者には浅井忠五姓田義松小山正太郎松岡寿山本芳翠など、後に明治期の洋画界で活躍した人物が多数いた。女性も入学でき、ニコライ堂イコンで知られる山下りんも在学者であった。

フォンタネージの帰国に失望した画学科生の多数が退学し、十一会を設立した。また、アーネスト・フェノロサ岡倉覚三(天心)などの活動により西洋美術より日本美術への関心が高まったため、工部美術学校もやがて廃校になり、洋画家にとっては苦難の時代を迎えた。

ギャラリー

脚注

  1. ^ 人物の特定は金刀比羅宮美の世界(四国新聞社)による。

参考文献

評伝



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「アントニオ・フォンタネージ」の関連用語

アントニオ・フォンタネージのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



アントニオ・フォンタネージのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
デジタル大辞泉デジタル大辞泉
(C)Shogakukan Inc.
株式会社 小学館
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのアントニオ・フォンタネージ (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS