洋画家を目指して
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ところが嘉永年間のある時、西洋製の石版画に接し、日頃目にする日本や中国の絵とは全く異なる迫真的な描写に強い衝撃を受ける。以後、洋画の研究を決意し、生涯その道に進むことになる。文久2年9月5日(1862年10月27日)に蕃書調所の画学局に入局し、川上冬崖に師事した。元治1年12月6日、開成所画学出役となった。本格的に油彩を学ぶことができたのは、慶応2年(1866年)、当時横浜に住んでいたイギリス人ワーグマンに師事したときで翌年にはパリ万国博覧会へ出展している。 明治時代に入り民部省の吏生や大学南校の画学教官など官職を務めるが明治6年(1873年)6月には官職を辞して日本橋浜町に画塾である天絵社を創設し(1879年天絵学舎と改称、1884年閉鎖)、弟子第一号の淡島椿岳や原田直次郎、息子の高橋源吉、日本画家の川端玉章、岡本春暉、荒木寛畝ら多くの弟子を養成する。天絵社で毎月第1日曜に展覧会をひらき、自作および門下生の作品を展覧した。明治9年(1876年)、工部美術学校の西洋絵画教師として来日した、イタリア人画家アントニオ・フォンタネージと交流を深め、作画の指示を仰いだ。 明治12年(1879年)に金刀比羅宮で開かれた第2回琴平山博覧会で、天絵舎に資金援助してもらうため、作品を奉納した。そのため、金刀比羅宮は由一の作品を27点収蔵しており、現在は金刀比羅宮境内にある「高橋由一館」に展示されている。 人物、風景などの作品もあるが、代表作として挙げるべきは『鮭』であろう。極端に縦長の画面に縄で吊るされ、なかば身を欠き取られた鮭のみを描いたこの作品は西洋の模倣ではない文字通り日本人の油絵になっていると評されている。明治12年(1879年)には元老院の依頼で明治天皇の肖像も描いた。1880年4月から8月まで主幹として美術雑誌『臥遊席珍』全5号刊行。 明治14年(1881年)より山形県令であった三島通庸の要請により、三島の行った数々の土木工事の記録画を描いている。代表的なものとして『栗子山隧道図西洞門』がある。明治18年(1885年)12月21日、「展画閣ヲ造築セン事ヲ希望スルノ主意」を元老院議長佐野常民に提出する。 明治27年自宅で逝去。法名は実際院真翁由一居士。墓所は渋谷区広尾の臨済宗祥雲寺。回想記に『高橋由一履歴』がある。洋画家の安藤仲太郎は甥。
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