洋画家を目指してとは? わかりやすく解説

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洋画家を目指して

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 06:58 UTC 版)

高橋由一」の記事における「洋画家を目指して」の解説

ところが嘉永年間のある時、西洋製の石版画接し日頃目にする日本中国の絵とは全く異な迫真的描写に強い衝撃を受ける以後洋画研究決意し生涯その道に進むことになる。文久2年9月5日1862年10月27日)に蕃書調所画学局に入局し、川上冬崖師事した元治1年12月6日開成所画学出役となった本格的に油彩を学ぶことができたのは、慶応2年1866年)、当時横浜住んでいたイギリス人ワーグマン師事したときで翌年にはパリ万国博覧会出展している。 明治時代入り民部省の吏生や大学南校画学教官など官職務めるが明治6年1873年6月には官職辞して日本橋浜町画塾である天絵社を創設し1879年天絵学舎改称1884年閉鎖)、弟子第一号の淡島椿岳原田直次郎息子高橋源吉日本画家川端玉章岡本春暉荒木寛畝多く弟子養成する。天絵社で毎月第1日曜に展覧会をひらき、自作および門下生作品展覧した。明治9年1876年)、工部美術学校西洋絵画教師として来日したイタリア人画家アントニオ・フォンタネージ交流深め作画指示仰いだ明治12年1879年)に金刀比羅宮開かれた第2回琴平山博覧会で、天絵舎に資金援助してもらうため、作品奉納した。そのため、金刀比羅宮は由一の作品27収蔵しており、現在は金刀比羅宮境内にある「高橋由一館」に展示されている。 人物風景などの作品もあるが、代表作として挙げるべきは『であろう極端に縦長画面に縄で吊るされ、なかば身を欠き取られのみを描いたこの作品西洋模倣ではない文字通り日本人油絵になっている評されている。明治12年1879年)には元老院依頼明治天皇肖像描いた1880年4月から8月まで主幹として美術雑誌臥遊席珍』全5号刊行明治14年1881年)より山形県であった三島通庸要請により、三島行った数々土木工事記録画を描いている。代表的なものとして『栗子山隧道西洞門』がある。明治18年1885年12月21日、「展画閣ヲ造築セン事希望スルノ主意」を元老院議長佐野常民提出する明治27年自宅逝去法名実際院真翁由一居士墓所渋谷区広尾臨済宗祥雲寺回想記に『高橋由一履歴』がある。洋画家安藤仲太郎は甥。

※この「洋画家を目指して」の解説は、「高橋由一」の解説の一部です。
「洋画家を目指して」を含む「高橋由一」の記事については、「高橋由一」の概要を参照ください。

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