洋画学習の道
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/03 08:00 UTC 版)
ところが13歳の時、仏画に関わるうちにこれとは逆に、世に本物そっくりに描く絵があるのを知り、密かに陰影法を独学し始める。文久2-3年(1862-63年)ごろ写真に啓発され、これを模写、陰影を工夫し日本画とも西洋画ともつかない絵を夢中に描いており、その『写生画帖』(京都国立近代美術館蔵)が残っている。元治元年(1864年)禁門の変による兵火で能満院が焼失、真言宗の蓮光院に移る。慶応元年(1865年)友人たちと写真機材を購入、写真術を習得し実物写生に役立てようとする。この頃、初代玄々堂・松本保居から銅版画も学ぶ。明治2年(1869年)から翌年にかけて御室尊寿院に移り、志摩の尊峰が発願した御室版両部曼荼羅開板事業に参加する。宗立の一般的な伝記では、この後洋画習得と発表へと続いていくが、実際には憲海との関係や仏画研究も継続している。 この頃油画の存在を知り、明治3年(1870年)京都最初の中学が設立されると、洋画を学ぶなら外国語を学ばなくてはと、欧学舎支舎英学校に入学、アメリカ人ボールドウィンから英語を学ぶ。このため宗立は、後まで流暢な英語を話したという。まもなく粟田口病院(青蓮院)に通訳兼画家として勤め、解剖図を模写し、ドイツ人医師ランゲックや英国人ウェットン、米国人ライアンゲーに油絵の手解きを受ける。明治5年(1872年)ワーグマンの評判を聞きつけ横浜へ旅立つ。ワーグマンの紹介で高橋由一、亀井至一、五姓田派の人々と交わったという。一方、2代玄々堂松田緑山に銅版画を学び、のちに石版画にも関心をしめした。一年程で京に戻り、苦心して手製画材を工夫することから初め、本格的な洋画研究にのめり込んでいく。
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