洋画家時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/22 09:40 UTC 版)
1872年(明治5年)3月、湯島聖堂で行われた博覧会に出品された内田政雄招来の油彩画を見て感銘を受ける。同年6月容堂が亡くなり、一時本気で殉死や出家を考えるも、川上冬崖、チャールズ・ワーグマン、国沢新九郎に洋画を学ぶ。1879年(明治12年)高橋由一、五姓田義松とともに、元老院の命で明治天皇、昭憲皇太后、英照皇太后の御影を描くという大任を任された。寛畝は、写真を参考に下絵を描いたがこれに満足せず、本人を写生をする機会を得て《英照皇太后御肖像》(御物)を描き上げた。しかし、その心労からくる重圧は相当なもので、これがきっかけとなって日本画へ復帰し、1881年(明治14年)の第2回内国勧業博覧会には油画額《耕作の図》《養蚕の図》を出品しているものの、翌年の第1回内国絵画共進会には《花鳥》《古代人物》の日本画を出している。
※この「洋画家時代」の解説は、「荒木寛畝」の解説の一部です。
「洋画家時代」を含む「荒木寛畝」の記事については、「荒木寛畝」の概要を参照ください。
- 洋画家時代のページへのリンク