はらだ‐なおじろう〔‐なほジラウ〕【原田直次郎】
原田直次郎
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原田 直次郎(はらだ なおじろう、1863年10月12日(文久3年8月30日) - 1899年(明治32年)12月26日)は、洋画家。
- ^ 1909年7月11日、学習院の学生であった原田熊雄は、直次郎の遺作展を開きたいとして森鷗外を訪ねた。かつて東京美術学校で教職に従事していた鴎外が同校教授黒田清輝を発起人に巻き込み、同年11月28日(日曜日)、同校の校友会倶楽部で「原田直次郎没後十周年記念遺作展覧会」が開催された。また2か月後、全出品作23点の写真と同時代人の回想とを掲載した「原田先生記念帖」が刊行されており、それは明治美術史の貴重な資料となっている。新関、60-61、138-140頁。
- ^ 東京外国語学校 編『東京外国語学校沿革』東京外国語学校、1932年、57頁。
- ^ a b 新収蔵品紹介岡山県立美術館 『美術館ニュース』(88) (岡山県, 2010-03)
- ^ 鴎外は、原田の存命中から『うたかたの記』の主人公、巨勢のモデルが原田であることを公言していた。
- ^ 原田は、ミュンヘン時代の終わりにドイツ人女性と同棲した反面、著名な大学教授の娘で、原田を慕う才色兼備の美大生から逃げまわった。鴎外によれば、西洋の風習に必ずしも通じていなかった原田は、日本に残してきた妻のツの字を語るのも気恥ずかしいため、親しくなった鴎外にさえ妻のことを語らなかった。
- ^ 新関は、鴎外の小説『[[舞姫 (森鴎外の小説)|]]』との類似性を指摘(ドイツ語が得意で政府要人との接触・随行後、妊婦を置いて帰国した日本人留学生のモデルが原田で、その留学生とドイツ人女性を引き離したモデルが鴎外など)。なお鴎外は、『独逸日記』で日本人が外国に子供を残したケースを三つ挙げていた。新関、27-44頁。
- ^ 久保田米斎が三木竹二の追悼文で次のように書いた。「帝国大学赤門の向うの憲兵屯所と煙草屋の間を左へ傾斜した細い路を行った所に、木造の西洋館と田舎の茅屋とが並んでいる一構が、森鴎外先生と親交のあった故原田直次郎画伯の画室と住宅とで、(中略)。十五年前の正月のある夜、カルタの大会が催された時(下略)」。カルタの大会には、鴎外や竹二なども参加した。小金井、135頁。
- ^ 「素尊斬蛇」は、関東大震災で焼失し、写真のみが残る。また、1980年に画稿が発見され、現在は岡山県立美術館所蔵(素戔嗚尊八岐大蛇退治画稿)。
- ^ 鴎外によれば、原田は、はなはだしい窮乏に陥ったことがないものの、豊かな暮らしをしたこともなく、寒生涯で終わった。
- 1 原田直次郎とは
- 2 原田直次郎の概要
- 3 鴎外による人物評
- 4 参考文献
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