鴎外による人物評
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 00:39 UTC 版)
鴎外によれば、原田は、留学中も帰国後もヨーロッパの色に染まらなかったが、留学先のドイツでたいそう師友に愛されていた。主に自然児として愛されていた。また、恬淡無欲の人であった。画塾「鐘美舘」では、謝金を受け取らなかった。洋画の需要が最も少なかった時代、政財界人につてを求めて肖像画をかかせてもらったりすることがなく、むしろ日本赤十字社により昭憲皇太后の肖像画を描く最終候補者3人の1人に選ばれながら辞退した(金500円)。 なお鴎外は、『原田直次郎』(1889年12月)を次の段落で結んだ。「私の友人にも女房持のものは少なくないが、その家庭をうかがって見て、実に温かに感じたのは、原田の家庭である。鐘美舘がまだ学校であった時、原田はその奥の古家に住んでいた。(中略)。原田と細君と子供四人と、そこに睦まじく暮らしていて、私が往けば子供は左右から、おじさんと呼んで取り附いた。細君はいつも晴々した顔色で居られて、原田が病気になってからも、永の年月の間たゆみなく看護せられた。殊に感じたのは、原田が神奈川に移る前に、細君が末の子を負って、終日子安村附近の家を捜して歩かれたという一事である。思うに原田は必ずしも不幸な人ではなかった。」
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