帰国と奮闘
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 00:39 UTC 版)
1887年7月、東京にもどった。しかし国内は、洋画排斥の嵐のまっただ中にあり、10月に洋画科を置かないまま東京美術学校が設立されると(ただし開校したのは1889年2月)、11月に原田は岡倉覚三(天心)とフェノロサの支持母体で国粋主義的な龍池会に入会した。同月19日、華族会館での龍池会例会で、フェノロサの絵画改良論(洋画排斥論)と狩野派を批判する講演をした(「絵画改良論」として『龍池会報告』第31号に収録)。その後も、龍池会とその改組された日本美術協会にしばらく留まり、日本画の振興を目的とした美術展覧会に油彩を出品した。1888年に「東洋画会」特別会員になり、その機関誌に洋画を紹介。原田の日本画壇での啓蒙活動は孤軍奮闘の様相であった。同年10月次女福(とみ)誕生。なお、東京美術学校が学生を受け入れる1か月前の1889年1月、本郷6丁目の自宅アトリエで画塾「鐘美舘」を開いた(無料)。1894年に閉鎖されるまで水野正英、小林万吾、伊藤快彦、和田英作、三宅克己、大下藤次郎などを指導した。 西洋画の団体「明治美術会」に活動の拠点を移し、仲間とともに東京美術学校に洋画科を開設するよう運動した。1890年、唯一洋画家も出品できる官展、内国勧業博覧会(第三回)に歴史画「騎龍観音」と「毛利敬親肖像」を出品。前者は、大作で人々の注目を集めたにもかかわらず、何も賞を受けなかった(2007年重要文化財に指定)。後者は、妙技三等賞にとどまった。原田は、洋画家の代表として審査官であったものの、審査委員長が洋画排斥の後ろ盾九鬼隆一であり、洋画に厳しい審査結果となった。また同年、東京帝国大学文学科教授で明治美術会賛助会員の外山正一が日本画・洋画にかかわらず、最大の問題として画題の貧困と思想の欠如とを指摘し、とりわけ原田の「騎龍観音」をやり玉に挙げた。その指摘は、多くの反発を呼び、中でも鴎外が外山を強く批判した。 1893年頃、原田は発病し、しだいに歩行が困難になり、やがて寝たまま制作するような状態となった。そうした中、画壇にも大きな変化が起こった。1894年、第六回明治美術会展では、新会員黒田清輝・久米桂一郎などの外光表現が注目をあび、翌年の第七回展では、黒田など天真道場出身の画家が多く出品し、原田など古参会員の暗い画風との対比が明瞭になった。当時のジャーナリズムは、その対比を旧派と新派の対立として扇動的に伝え、旧派が批判された。1895年、原田は第四回内国勧業博覧会に歴史画の大作「素尊斬蛇」を出品。1897年、第八回明治美術会展に最期の大作「海浜風景」を出品。弟子の木下藤次郎によれば、その作品も寝たまま、記憶のみで描いたという。1898年9月、療養のため、神奈川県子安村に転居。しかし翌年12月26日、東京帝国大学第二医院で没した。享年36。12月28日、天王寺に葬られ、竜蔵と熊雄の2児名が署せられた。
※この「帰国と奮闘」の解説は、「原田直次郎」の解説の一部です。
「帰国と奮闘」を含む「原田直次郎」の記事については、「原田直次郎」の概要を参照ください。
- 帰国と奮闘のページへのリンク