帰国と拷問死
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/12 07:25 UTC 版)
帰国後も彼女は出世し、栄達をきわめた。すでに、夫の金太鐘は1971年に妻の権勢を伝え聞いて養女とともに北に渡り、養女は北朝鮮の高官と結婚していた。済州島の母は娘の安否を長年知らずにいて、1991年に彼女の幼馴染に安否を尋ねると、幼馴染がその後北朝鮮に渡る機会があって人づてで彼女が北でたいへん出世していることを知り、そのことを彼女の母に教えたという。 1991年1月、金日成が在日本朝鮮人総聯合会(朝鮮総連)副議長と祖国統一汎民族連合(朝鮮語版)(汎民連)共同議長に会見したが、李善実はこれに陪席した。同月、彼女は韓国民族民主戦線副委員長に任命され、対南秘密工作部門の主要責任者となった。1992年4月、金日成の80歳の誕生日の宴会に朝鮮労働党政治局候補委員の資格で出席した。同年9月、北朝鮮の建国44周年行事の際、北朝鮮の「労働新聞」は政治局候補委員として22番目に李善実の姓名を掲げた。1994年の金日成の死(英語版)の際には国家葬儀委員会委員、1995年の元帥呉振宇の死去に際しても国家葬儀委員会委員を務めた。 2000年、金正日とその意を受けた腹心の張成沢による大粛清「深化組事件」で強制収容所送りとなり、そこで拷問死した。その後、金正日の指示で復権し、平壌の愛国烈士陵に埋葬された。
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