帰国と成果
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「フランクリン・ピール」の記事における「帰国と成果」の解説
1835年6月17日、ピールは276ページの報告書をムーアに提出した。それには訪れたヨーロッパ各地の造幣所の観察結果、コメント、推奨が記載されていた。「フランスとイングランドの造幣局組織において、職と在任者が居り、無用であり、その任務について重要なことを何もしない者がいる」と警告した。貨幣のデザイナーを指名しないフランスのやり方を好んで推薦したが、造幣所の役人と芸術家が合同で判断するコンペを行った。また過去に成立した断片的法に代わって、単一の包括的造幣法の成立を推奨した。これは1837年に実現した。ピールが提出し、採用されなかった提案の1つが造幣局に保証部門を置くことであり、ロンドンのゴールドスミス社で行われているように、民間で作られた金貨あるいは銀貨に、公的な品質保証を行う部門だった。またフランスの造幣局と同様に、フィラデルフィア造幣所でもメダルを打つことを推奨した。パリの施設が行っていたように、造幣局が貨幣とその鋳造の博物館を設立することを提案した。 ピールは、イギリスの造幣局から蒸気機関の設計を借り、フランスのものからはトグル継ぎ手の技術を組み合わせ、蒸気駆動の貨幣プレスのために描いた計画とともに、ヨーロッパから戻ってきた。9月、引退したムーアに代わって造幣局支配人になっていたパターソンが、財務長官リーヴァイ・ウッドベリーに宛てて、「我々はピール氏の監督下に、フランスとドイツでうまく使われているのを見てきた計画から、貨幣プレスのモデルを完成させたところである。現在造幣局で使われているねじ式プレスよりも多くの大変明白な利点がある。特に最も重要なことは、蒸気動力を直接かつ容易に適用できることである。」と書いていた。支配人のパターソンは1836年3月23日に「我々の貨幣鋳造に新時代を」開いたと言った。新しいプレス機の増産能力を生かすために、ピールは金属帯板から硬貨地板を打ち抜く新しい機械も設計した。この機械は1902年まで、ほとんど修正もされずに使い続けられた。 ピールが戻ってきて据え付けたもう1つの蒸気駆動機械は、ミリング機械であり、貨幣の周に縁を形成する「アップセット」に使われた。コンタミン・ポートレート旋盤をフランスから輸入し、1837年にフィラデルフィア造幣所に据え付けた。これより以前、アメリカ貨幣の型は全て、フィラデルフィアで一つずつ手作りされていた。この旋盤を据え付けると、パンタグラフのような装置によって機械的に生産されるようになった。 フィラデルフィア造幣所で蒸気駆動貨幣プレスで初めて打たれたメダルは、1836年3月23日に打たれた。最初の蒸気駆動プレスはセント貨幣の鋳造を開始し、最初の銀貨と金貨もそこで、その年の末に向けて打たれた。ピールの設計により、フィラデルフィアのメリック、アグニュー、テイラーの会社で製造されたプレス機は、1分間に100枚の貨幣を打つことができた。このプレス機は政府の仕事から引退した後も、長年フランクリン研究所でミニチュア・メダルを打つために使われ続け、2000年にコロラドスプリングスのアメリカ賞牌協会の貨幣博物館に移された。パターソンは次のように記していた。 このプレス機の能力は、レバーの動力をねじ式のものに置き換えたものであり、我々の期待に全て応えてくれた。その時から全ての銅貨はこのプレス機で打たれ、最近では半ドル貨幣も打つことができた。作業者は今や他の蒸気駆動プレス機制作に当たっており、それらが完成すると、人力に拠る貨幣鋳造はなくなる。造幣局で行われる仕事は著しく増加することになる。 貨幣学者ロジャー・バーデットは「ピールは大半の分野でヨーロッパの例題から最良のものを選択し、不必要な複雑さや効率的ではない動きを排除したように見える」と述べている。時間を追って小さな改良が加えられたが、これらの機械は、ピールが生きている間、国内の貨幣を打ち続けた。 貨幣学者のデイビッド・ラングに拠れば、「後のフィラデルフィア鋳造所溶解精錬者フランクリン・ピールの実情調査の旅は、1833年から1835年のヨーロッパ造幣局を通じて、アメリカ合衆国の貨幣が技術ではどこにも劣らないようにした。」としている。ラングはその造幣局の歴史で、ピールは不正の告発の中で解雇されてその経歴を終えたが、ヨーロッパから戻ったとき、「ヨーロッパの造幣局で考案された多くの革新の伝達者であり、現在はフィラデルフィアのアメリカ合衆国造幣局で利用できるようにされた」と記している.。 ピールが長年仕えた造幣局支配人の息子ロバート・パターソン3世は、ピールの報告書を通じて、「我々の造幣局は」海外の造幣局や製錬所から「得られた価値あるもの全てを備えた。」と記した。パターソンはフィラデルフィア造幣所の貨幣鋳造部を通じて渡したように、ロンドンのセント・ポール大聖堂でクリストファー・レン卿に対する献辞「彼の記念碑を求めるなら、貴方の周りを見よ」(言語はラテン語でSi Monumentum Requiris, Circumspice)をピールのために再生する銘盤を置くべきと、何度も考えたことを示していた。
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