帰国から再来日
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/23 23:24 UTC 版)
終戦後解放されたが、ホテルはGHQに接収されたため職場への復帰は叶わず、スイスに帰国した。 1953年、かつてワイルの部下であった馬場久が当時勤めていた日活ホテル社長、堀久作より欧米への7か月の研修旅行を与えられ、その途中にスイス、ベルンでワイルと再会した。終戦の失意と共に日本を離れていたワイルは弟子たちやホテルニューグランドの近況を気にかけており、訪日への願いを聞いた馬場は帰国後、ワイルの招聘の為に奔走した。その結果、ワイルは1956年9月30日の深夜羽田空港に到着、150名あまりの歓迎と共に再来日を果たした。10月2日には日比谷日活会館6階のメインダイニングで盛大なレセプションパーティーが開かれ、3日は横浜市平沼市長とともに三渓園へ原社長を表敬訪問、4日から5日はTBSのテレビ番組でブイヤベース・ア・ラ・マルセイエーズを実演し、5日の午後は国際クッキングスクール主催の歓迎会に参加した。10月6日には国際調理技術技師技術協会会長を務める荒田勇作の主催で、京橋公会堂にてワイルの料理講習会が催された。7日午後は自由が丘の洋菓子店を視察したのち椿山荘で会食。8日は平沼横浜市長と再び会い、手土産に掛け軸を受け取り、夜は在日スイス人の主催する会食ですき焼きを楽しむ。9日は富友会主催の晩餐会で馬場、荒田、今川金松、斎藤文次郎、高石鍈之助らと食事をとり、乱立していた日本の調理師の協会がまとまる事が日本人調理師の成長の為に望ましいと提言した。10日は日活の撮影所を訪れ、石原裕次郎、芦川いづみ、森雅之らと記念撮影をしている。11日は五反田で共に働いた弟子たちと夕食を食べ、12日に羽田空港から大阪へと出発した。 伊丹空港に降り立つと一路辻徳光の経営する日本割烹学校へ赴き、2年前に副校長である辻勲がベルンで開催された世界芸術料理コンクールに参加した際に受賞した金賞を称え、ベルン料理長団体の名誉会員バッジを贈った。13日、辻勲の案内で京都を訪れ、桂離宮、清水寺、三十三間堂などを観光し、夜には京都府調理師会首脳らと会食。14日、大阪ニューグランドの縁故者らと会食、夕方からは辻勲の運転で大阪北極星の主人、北橋の招待会が吉兆で行われる。15日、関西司厨士校友会主催の昼食会が料亭つるやで行われ、再び辻勲の運転で西宮、甲陽園はり半の店主乾の歓迎会に赴く。16日は前日に注文しておいた材料を使って乾にゲシナツルと振舞い、午後は辻夫妻とともに奈良、春日大社などを観光した。17日、神戸オリエンタルホテルを訪問し、大阪会館割烹学校神戸分校の講習生100名の前でスイスの話と料理指導を行い、夜は神戸の料亭三つ輪割烹学園平田校長の晩餐会に招待される。18日、午前9時大阪駅発の急行列車で広島へ移動し、広島原爆慰霊塔に献花した。19日は宮島を観光し、その後新広島ホテルの調理場を借りて中国司厨士協会の幹部、料理研究者にスイス料理を披露する。その日の深夜、夜行列車で福岡へ向かい、20日午前9時、博多駅に到着。日活ホテルで昼食後、新聞記者団の会見を受け、夜には西日本司厨士協会主催の晩餐会。21日の昼、日活ホテル重役関係者の宴会があり、料理を頼まれたことから、鳥のグラン・リュとトマトスープを披露する。その後、博多板付空港から飛行機に乗り、伊丹空港では辻勲夫妻と最後の別れを交わし、午後8時前に羽田空港に到着。 22日、長旅の疲れをいやすため熱海富士屋ホテルへ向かう。23日、今度は宮ノ下の富士屋ホテルへ行き、昼は旧御用邸の菊華荘ですき焼きを食べ、3時にはホテルを出発し、小田原から列車で横浜へ移動。24日、午後から日本テレビ「味覚のしおり」に出演するため、東京日本テレビ放送局へ行き、ツィゴイネル・ステーキとベニェ・ド・フロマージュを生放送で実演する。25日、横浜野毛山のレストラン喜多八、センターグリル、伊勢佐木町の桃山グリルなどに弟子たちの近況を視察し、夜には司厨士協会横浜支部長主催の宴会。そして翌26日、午後6時からホテルニューグランドにてサヨナラパーティーが開催され、全国の司厨士協同会などから記念品が贈呈され、ワイルの日本での働き、功績を称える宴は盛大に行われた。 10月29日午後11時、ワイルは日本に到着した時と同じく笑顔で飛行機に搭乗すると、荷物を機内に置くなり再び姿を現し、離陸直前まで日本の関係者との別れを惜しみ、大歓声とともにスイスへと帰っていった。
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