帰国、そして戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/07 22:51 UTC 版)
「テオドール・エードラー・フォン・レルヒ」の記事における「帰国、そして戦争」の解説
帰国後は戦争省附を経てメッツォロンバルドの第14師団隷下第4混成山岳連隊第1大隊長、スクタリの歩兵第87連隊分遣隊長を任ぜられる。 オーストリアがセルビアに宣戦布告したことで勃発した第一次世界大戦では新設された第17軍参謀長に任ぜられ、ワルシャワに派遣。ロシア帝国陸軍と交戦するも物量に勝る敵に後退を余儀なくされ、1年間カルパティア山脈に留まる。1年後の3月、ガリツィアの戦闘で大敗。8月にはブレスト=リトフスク(現ブレスト)まで盛り返すも、再度反撃を受けシュトルフィーまで後退。16年3月以降は南に派遣され、イゾンツォにてイタリア王国と交戦。その後はドイツ帝国陸軍軍集団「ループレヒト王太子」(de)の所属として西部戦線に向かいフランドル地方などを転戦したが、詳細は不明。この戦線での負傷により退役を余儀なくされた。 退役後、貿易会社を立ち上げ業務取締役の役職に就くが、わずか1年で役職から身を引く。以降はチロル地方での勤務や日本への旅行を題材に、講演活動などを中心とした生活を送った。満州事変勃発後の1932年、戦争省でのキャリアを活かし「オーストリア軍事新聞」などの軍事誌に極東情勢を中心とした記事や論文を寄稿し、軍事専門家として活動する。しかし敗戦国であるため軍事恩給もなく、その暮らしは財政面でかなり苦しかったという。 1945年12月24日、連合軍による軍政期中のオーストリアで糖尿病のため死去。76歳没。ウィーンの共同墓地に葬られた。 現在、新潟県上越市高田の金谷山には日本スキー発祥記念館が設置され、レルヒの業績を伝えている。また毎年2月上旬に「レルヒ祭」をはじめとした各種記念イベントが開かれている。2010年はレルヒが日本にスキーを持ち込んで100年になることもあり、11年にかけて各種記念事業が開催された。 金谷山スキー場より市街地を見下ろすレルヒ像 旭川空港に設置されているレルヒの銅像 「大日本スキー発祥之地」記念碑(新潟県上越市金谷山スキー場) 日本スキー発祥記念館(新潟県上越市金谷山)
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