帰参と追討
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/02 09:49 UTC 版)
毛利氏出奔後の独立大名化の働きかけや他大名への仕官に失敗した広長は経済的に困窮していき、慶長20年(1615年)に大坂の陣が終結すると毛利氏への帰参を嘆願するようになり、元和3年(1617年)に帰参を許された。同年12月5日に井原元以を通じて輝元・秀就父子への忠誠を誓い、12月14日には血判起請文も提出した。広長には200人扶持が与えられ、萩の平安古に住した。 しかし、帰参した翌年の元和4年(1618年)8月25日、輝元の命を受けた清水元親らの追討を受けて自刃した。享年37。広長の死により、石見吉見氏の直系は断絶した。
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