毛利氏出奔
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慶長9年(1604年)、父・広頼の隠居所のあった萩の指月山に毛利氏の居城となる萩城を築くことが決定したため、広頼は大井村への移住を余儀なくされた。このことで広行は更に不満を高めたと見られ、遂には同年12月頃に側近7、8人を伴って毛利氏を出奔し、江戸へ向かった。広行は関ヶ原の戦い後に徳川家康から朱印状を与えられた際に形成された伝手を用いて徳川政権へ接近し、独立大名化を企てたものと考えられており、同時期に家康から独立大名として処遇するという誘いを断って毛利氏家中に留まった益田元祥とは対照的である。また、出奔以後は名を「広行」から「広長」へと改めている。 広長の出奔に対し、輝元は12月15日付で家康の側室である阿茶局の前夫との間の子・神尾守世に宛てて、広長の出奔の経緯について説明した。広長が自身の出奔の正当性を主張し、輝元の非を訴え出ることによって萩藩内での家中騒動と認定されて改易される事態を警戒して、輝元は直ちに本多正信・正純父子や阿茶局を通じて事情を説明しようとしたと考えられている。 また、慶長10年(1605年)1月23日、広長の出奔により当主不在となった吉見家に対して輝元は厳しい処分を科した。父・広頼は広長に同心していなかったために隠居料を安堵されたが、許容された一部の家臣を除いて吉見氏家臣らは、広長補佐の任を果たせなかったことを理由とした追放処分と防長2ヶ国への入国禁止処置をとり、もし入国した場合は成敗するという罰則を設けている。輝元が吉見家に厳しい処分を行ったのは、独立大名化を図った広長の行動を看過した場合、毛利氏家中に留まっている有力国人領主への悪影響が懸念されることから、厳しい処分を家中に明示する必要があったためである。 しかし結局、広長の徳川政権に対する独立大名化の働きかけが成就することはなく、出奔前から接触していた小倉藩の細川忠興ら九州の大名への再仕官についても、輝元からの奉公構があったためか、失敗に終わっている。 一方、広長出奔後の吉見氏は、慶長17年(1612年)に輝元の命によって吉川広家の次男・政春が吉見広頼の五女(広長の妹)と婚姻して家督を相続したため、この時点で吉見氏は事実上毛利氏に吸収されてその自立性を喪失した。翌慶長18年(1613年)には吉見広頼が死去し、政春は後に「毛利就頼」と名乗って大野毛利家の祖となる。
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