毛利氏出奔とは? わかりやすく解説

毛利氏出奔

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/02 09:49 UTC 版)

吉見広長」の記事における「毛利氏出奔」の解説

慶長9年1604年)、父・広頼の隠居所のあった指月山毛利氏居城となる萩城を築くことが決定したため、広頼は大井村への移住余儀なくされた。このことで広行は更に不満を高めた見られ遂に同年12月頃に側近7、8人を伴って毛利氏出奔し江戸へ向かった。広行は関ヶ原の戦い後徳川家康から朱印状与えられた際に形成され伝手用いて徳川政権接近し独立大名化を企てたものと考えられており、同時期に家康から独立大名として処遇するという誘い断って毛利氏家中に留まった益田元祥とは対照的である。また、出奔以後は名を「広行」から「広長」へと改めている。 広長の出奔対し、輝元は12月15日付で家康側室である阿茶局前夫との間の子神尾世に宛てて、広長の出奔経緯について説明した。広長が自身出奔正当性主張し、輝元の非を訴え出ることによって萩藩内での家中騒動認定され改易される事態警戒して、輝元は直ち本多正信・正純父子阿茶局通じて事情説明しようとしたと考えられている。 また、慶長10年1605年1月23日、広長の出奔により当主不在となった吉見に対して輝元は厳し処分科した。父・広頼は広長に同心していなかったために隠居料安堵されたが、許容され一部家臣除いて吉見氏家臣らは、広長補佐の任を果たせなかったことを理由とした追放処分防長2ヶ国への入国禁止処置をとり、もし入国した場合成敗するという罰則設けている。輝元が吉見家に厳し処分行ったのは、独立大名化を図った長の行動看過した場合毛利氏家中に留まっている有力国人領主への悪影響懸念されることから、厳し処分家中明示する必要があったためである。 しかし結局、広長の徳川政権対す独立大名化の働きかけ成就することはなく、出奔前から接触していた小倉藩細川忠興九州の大名への再仕官についても、輝元からの奉公構があったためか、失敗終わっている。 一方、広長出奔後の吉見氏は、慶長17年1612年)に輝元の命によって吉川広家次男・政春が吉見広頼の五女(広長の妹)と婚姻して家督相続したため、この時点吉見氏事実上毛利氏吸収されてその自立性喪失した。翌慶長18年1613年)には吉見広頼死去し、政春は後に「毛利就頼」と名乗って大野毛利家の祖となる。

※この「毛利氏出奔」の解説は、「吉見広長」の解説の一部です。
「毛利氏出奔」を含む「吉見広長」の記事については、「吉見広長」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「毛利氏出奔」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「毛利氏出奔」の関連用語

毛利氏出奔のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



毛利氏出奔のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの吉見広長 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS