毛利氏帰属後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/02/17 06:10 UTC 版)
毛利氏に帰属した盛清は、永禄9年(1566年)の毛利軍による尼子義久の月山富田城攻めでは先鋒を務め、永禄11年(1568年)から永禄12年(1569年)にかけての立花城の戦いや、永禄12年8月に出雲国へ侵攻した尼子勝久らによる尼子再興軍との戦いなど、各地を転戦した。 元亀4年(1573年)、嫡男の幸清に家督と本領の赤穴荘を譲って隠居し、晩年には祖父と同じ名の「久清」と名乗っている。しかし、幸清は天正18年(1590年)3月24日に嫡男の才寿丸(後の中川元寄)へ本領の赤穴荘500貫と出雲・石見国内各地の約500貫、合わせて1000貫余りの所領を譲与し、同年5月10日に父に先立って死去。元寄が家督を相続した。 盛清は文禄4年(1595年)11月13日に死去。享年67。
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