毛利氏離反とは? わかりやすく解説

毛利氏離反

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/06/01 13:48 UTC 版)

上原元将」の記事における「毛利氏離反」の解説

天正10年1582年4月織田氏重臣羽柴秀吉備中攻撃開始すると、元将が守る日幡城付近宮路山城・冠山城亀石城相次いで織田氏服属秀吉続けて5月7日清水宗治の守る備中高松城包囲した。この動き対し吉川元春小早川隆景高松城救援するために高松城西南十数町にある岩崎山まで軍を進めたが、高松城救援は容易ではなかった。高松城への救援進まない状況見た元将は毛利氏前途悲観し秀吉調略に応じて織田氏へ降ることを決めた当時日幡城の二の丸守っていた日幡景親は、元将の毛利氏離反の意志を知ると元将を強く諌めたが、元将は諫言聞き入れず六郎兵衛討ち果たし織田方へ寝返った。元将は宇喜多軍を日幡城に招き入れ秀吉木村重茲検使として日幡城へ派遣した。元将の離反知った国司元武は、上原氏と所領隣接し親密間柄であり当時岩山城の守備していた湯浅将宗連絡。将宗は岩崎山に在陣する吉川元春小早川隆景急使派遣して元将の離反報告し、自らの進退についての指示仰いだ。元春と隆景は直ち楢崎元兼備中備後の兵を率いさせて日幡城を攻撃。この攻撃に対して秀吉自重して元将を救援しなかったため、直ぐに日幡城は陥落し、元将は城を脱して秀吉の下へ逃亡した。さらに楢崎元兼は元将の妻(元就三女)を奪還し吉田郡山城へと送り届けた。 元将の離反直ち鎮圧されたが、元就娘婿にあたる元将の毛利氏離反は毛利氏大きな動揺与え織田氏との戦い従軍中の三沢為虎久代修理亮らの離反風説生じている。 秀吉の下へ逃れた元将は、後に秀吉から1000石を与えられ天正12年1584年)に客死した

※この「毛利氏離反」の解説は、「上原元将」の解説の一部です。
「毛利氏離反」を含む「上原元将」の記事については、「上原元将」の概要を参照ください。

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