毛利氏麾下での活躍
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美作国の国人・草苅衡継の長男として生まれ、祖父の草苅伊賀守景継と同じく「景継」と名乗る。 永禄2年(1559年)に父の衡継が隠居し、家督を相続した。景継は家督相続の御礼として将軍・足利義輝に正宗の太刀一振、信国の刀、馬一疋を献上し、同年12月5日に義輝の御内書と上野信恵の礼状を送られている。 永禄6年(1563年)、毛利元就が出雲攻めにおいて出雲国の洗合城に在陣して尼子義久の月山富田城を取り囲んでいた際、景継は因幡国智頭郡の唐櫃城へ出陣して国境を固め、因幡国と但馬国の尼子氏に味方する者が月山富田城へ兵糧を送るのを阻止した。景継はこの事を元就に注進し、元就は8月10日に返書を出して景継の働きに感謝の意を表した。 永禄10年(1567年)から永禄11年(1568年)にかけて吉川元春と小早川隆景が伊予国へ出陣すると景継も従軍し(毛利氏の伊予出兵)、永禄12年(1569年)5月の立花城の戦い・多々良浜の戦いにも加わった。同年6月に尼子勝久や山中幸盛ら尼子再興軍が隠岐国から出雲国へ侵攻(尼子再興軍の雲州侵攻)し、これに呼応して蜂起した尼子氏の残党が因幡国と美作国へ侵入。景継不在の高山城も攻撃を受けたが、留守居の家臣が防いだ。景継は北九州から急ぎ帰国し、攻め来る尼子氏残党を鎮圧した。 元亀元年(1570年)、景継は所領に関することで因幡国の武田高信と交戦したが、いずれも毛利方に属する国人である両者が争うこと憂えた元就の調停によって和睦した。しかし、足利義昭が備前隣国の諸勢力に浦上宗景討伐を命じると景継は直ちに応じ、宇喜多直家や別所安治らと示し合わせて浦上宗景と戦ったが、再び元就の調停によって浦上氏と和睦した。景継は義昭に美作周辺の情勢を注進し、一方で上野信恵から姉川の戦いなどの近畿の情勢を教わっている。また、同年に足利義昭から三番加番の御内書を送られた。 浦上宗景との和睦後も義昭は重ねて浦上氏討伐を命じていたが、浦上宗景は別所氏の居城である三木城を攻撃。元亀3年(1572年)に輝元は浦上宗景と宇喜多直家を攻撃し、景継は毛利氏に協力して因幡国と伯耆国の諸将と共に美作国から浦上・宇喜多両氏に圧迫した。しかし、同じ頃に武田高信とも再び争ったため、かつての元就の調停を蔑ろにする景継は毛利氏に対して逆心を抱いているとの雑説が流れたが、景継は聊かも毛利氏に対して別心無き旨を言上してより一層毛利氏への忠節に励んだため、輝元は同年8月14日に書状を景継へ送って、景継の忠義を忘却せず長久に申談すべきことを誓い、太刀一腰と銀子50枚を贈った。 天正元年(1573年)3月頃、尼子勝久や山中幸盛ら尼子再興軍が再び挙兵し、因幡国へ侵攻した。景継は因幡国にも所領を有していたため、尼子軍に対して頑強に抵抗し、輝元へ因幡国の情勢を報告して援軍を要請した。8月12日に輝元は景継へ返書を送って油断無く加勢を送ると答えると共に、景継が数年来毛利氏に昵懇であるために、特に近頃の働きを頼もしく思っていると述べている。 天正2年(1574年)、景継は小早川隆景のもとへ使者を派遣し、因幡の事については今後とも一層奔走すべきことを申し出た。隆景は2月13日に景継へ返書を出し、同時に輝元も蔵田元貞を使者として派遣した。このように、天正2年初め頃までの景継は毛利氏に対する忠節に励んでいた。
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