毛利氏麾下での活躍とは? わかりやすく解説

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毛利氏麾下での活躍

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/24 09:33 UTC 版)

草刈景継」の記事における「毛利氏麾下での活躍」の解説

美作国国人苅衡継の長男として生まれ祖父伊賀守景継と同じく「景継」と名乗る永禄2年1559年)に父の衡継が隠居し家督相続した。景継は家督相続御礼として将軍足利義輝正宗太刀一振信国の刀、馬一疋献上し同年12月5日義輝御内書上野信恵の礼状送られている。 永禄6年1563年)、毛利元就出雲攻めにおいて出雲国の洗合城に在陣して尼子義久月山富田城取り囲んでいた際、景継は因幡国智頭郡唐櫃城へ出陣し国境固め因幡国但馬国尼子氏味方する者が月山富田城兵糧を送るのを阻止した。景継はこの事を元就注進し、元就8月10日返書出して景継の働き感謝の意表した永禄10年1567年)から永禄11年1568年)にかけて吉川元春小早川隆景伊予国出陣すると景継も従軍し毛利氏の伊予出兵)、永禄12年1569年5月立花城の戦い多々良浜の戦いにも加わった同年6月尼子勝久山中幸盛尼子再興軍が隠岐国から出雲国侵攻尼子再興軍の雲州侵攻)し、これに呼応して蜂起した尼子氏残党因幡国美作国侵入。景継不在高山城攻撃受けたが、留守居家臣防いだ。景継は北九州から急ぎ帰国し攻め来る尼子氏残党鎮圧した元亀元年1570年)、景継は所領に関することで因幡国武田高信交戦したが、いずれも毛利方に属す国人である両者が争うこと憂えた元就調停によって和睦した。しかし、足利義昭備前隣国諸勢力浦上宗景討伐命じると景継は直ち応じ宇喜多直家別所安治らと示し合わせて浦上宗景戦ったが、再び元就調停によって浦上氏和睦した。景継は義昭美作周辺情勢注進し、一方で上野信恵から姉川の戦いなどの近畿情勢教わっている。また、同年足利義昭から三番加番御内書送られた。 浦上宗景との和睦後義昭重ねて浦上氏討伐命じていたが、浦上宗景別所氏居城である三木城攻撃元亀3年1572年)に輝元は浦上宗景宇喜多直家攻撃し、景継は毛利氏協力して因幡国伯耆国諸将と共に美作国から浦上宇喜多両氏圧迫した。しかし、同じ頃に武田高信とも再び争ったため、かつての元就調停蔑ろにする景継は毛利氏に対して逆心抱いているとの雑説流れたが、景継は聊かも毛利氏に対して別心無き旨を言上してより一層毛利氏への忠節励んだため、輝元は同年8月14日書状を景継へ送って、景継の忠義忘却せず長久に申談すべきことを誓い太刀一腰銀子50贈った天正元年1573年3月頃、尼子勝久山中幸盛尼子再興軍が再び挙兵し因幡国侵攻した。景継は因幡国にも所領有していたため、尼子軍に対して頑強に抵抗し、輝元へ因幡国情勢報告して援軍要請した8月12日に輝元は景継へ返書送って油断無く加勢を送ると答えと共に、景継が数年来毛利氏昵懇であるために、特に近頃働き頼もしく思っていると述べている。 天正2年1574年)、景継は小早川隆景のもとへ使者派遣し因幡の事については今後とも一層奔走すべきことを申し出た。隆景は2月13日に景継へ返書出し同時に輝元も蔵田元貞使者として派遣したこのように天正2年初め頃までの景継は毛利氏対す忠節励んでいた。

※この「毛利氏麾下での活躍」の解説は、「草刈景継」の解説の一部です。
「毛利氏麾下での活躍」を含む「草刈景継」の記事については、「草刈景継」の概要を参照ください。

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