毛利氏家臣へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/21 14:28 UTC 版)
天正12年(1584年)3月13日、輝元は隆通に対し、三吉氏や久代氏、三沢氏と同様に毛利氏に人質を差し出す事を要求。さらに同年4月18日には熊谷信直に対し、隆通が人質を出すよう宍戸隆家への助言を依頼した。これを受けて熊谷信直は同年4月20日に隆通へ書状を送り、輝元の人質要求に対して隆通が分別を持って返事するよう求め、同日に隆通は広通を人質として宍戸隆家に差し出すので輝元への取り成しをするよう信直に依頼した。同年5月23日に広通は人質として宍戸氏の五龍城へ行くこととなったが、隆通は広通が五龍城へ行くのは病の養生の為と称するよう熊谷信直に述べている。 天正13年(1585年)に隆通は輝元らに従って四国征伐に従軍し、天正14年(1586年)2月12日、輝元の命により山内氏の知行高を注進した。この時の山内氏の所領は備後、安芸、出雲に渡っており、山内家重臣である滑通恒、宇野通治、河面通友、涌喜通良らの所領を含めて合計6748貫であった。この人質差出と所領注進によって、以後の山内氏は毛利氏の体制に組み込まれていくこととなり、同年10月15日、隆通は死去した。享年57。
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