毛利氏帰属と対尼子氏
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天文22年(1553年)、元就の娘婿・宍戸隆家の母が、隆通の祖父・直通の娘であった縁から、宍戸隆家と口羽通良から毛利氏へ帰順するよう説得を受けた隆通は、同年12月3日に9ヶ条の条件を宍戸隆家に提示した。元就と隆元は三谿郡和智村と涌喜氏に関する2ヶ条を除く7ヶ条を承認して起請文を隆通に送った。この返答を隆通も受け入れ、以後山内氏は毛利氏の麾下に属することとなり、他の備後の諸将とは別格の待遇を受けて重用されている。 弘治元年(1555年)の厳島の戦い後の防長経略において隆通は、元就らが留守の安芸国へ尼子晴久が備後路から侵攻することを防ぐために、甲山城の守りを固めた。弘治3年(1557年)に大内氏が滅亡すると毛利氏は尼子氏との対決へと移るが、尼子氏との対決においては備後で大きな勢力を有する山内氏らの協力が必要であった。この頃、隆通は将軍の足利義輝から毛氈鞍覆と白傘袋の免許を得るために、義輝の同朋衆と思われる縁阿弥を通じて結城意旭へ働きかけ、さらに義輝や縁阿弥、朽木輝孝などへの贈物をし、毛氈鞍覆と白傘袋の免許を得ている。京を追われて流浪の将軍となった足利義昭からではなく、京都にいた足利義輝から許可を受けたことは備後の在地領主の中でも大きな権威付けとなったが、許可を得るために多くの贈物をしていることからも、この当時の山内氏がそれだけの勢力を有していたことと、そうまでしてでも毛氈鞍覆と白傘袋の免許を得る価値があったことが窺われる。 永禄5年(1562年)から始まる元就の出雲侵攻で隆通は先鋒を務め、7月、尼子氏領である出雲国牛尾の半分である700貫、賀茂500貫、井能300貫、佐世700貫を与えること約束され、同年10月には出雲国道前300貫も加えられた。永禄6年(1563年)にも元就は牛尾の半分を与える約束が間違いではないことを重ねて申し入れている。そして永禄9年(1566年)に尼子義久は毛利氏に降伏した。永禄11年(1568年)1月に隆通は、比叡山延暦寺に依頼して、武運長久、家内安全、子孫繁昌、息災延命を祈祷し、同年に九州の大友氏との戦いに動員されている。また、元亀元年(1570年)、毛利氏に石見を追われていた福屋隆兼が出雲に潜入し、尼子氏再興のため出雲へ侵攻した尼子勝久と合流したため、同年7月25日に隆通は出雲国宇祢路において福屋隆兼と戦った。
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