毛利氏帰属と対尼子氏とは? わかりやすく解説

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毛利氏帰属と対尼子氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/21 14:28 UTC 版)

山内隆通」の記事における「毛利氏帰属と対尼子氏」の解説

天文22年1553年)、元就娘婿宍戸隆家の母が、隆通の祖父直通の娘であった縁から、宍戸隆家口羽通良から毛利氏帰順するよう説得受けた隆通は、同年12月3日に9ヶ条の条件宍戸隆家提示した元就隆元三谿郡和智と涌喜氏に関する2ヶ条を除く7ヶ条を承認して起請文を隆通に送った。この返答を隆通も受け入れ以後山内氏毛利氏麾下属することとなり、他の備後諸将とは別格待遇受けて重用されている。 弘治元年1555年)の厳島の戦い後の防長経略において隆通は、元就らが留守安芸国尼子晴久備後路から侵攻することを防ぐために、甲山城の守り固めた弘治3年1557年)に大内氏滅亡する毛利氏尼子氏との対決へと移るが、尼子氏との対決においては備後大きな勢力有する山内氏らの協力が必要であったこの頃、隆通は将軍足利義輝から毛氈鞍覆と白傘袋免許を得るために、義輝同朋衆思われる阿弥通じて結城意旭へ働きかけ、さらに義輝や縁阿弥朽木輝孝などへの贈物をし、毛氈鞍覆と白傘袋免許得ている。京を追われ流浪将軍となった足利義昭からではなく京都にいた足利義輝から許可受けたことは備後在地領主中でも大きな権威付けとなったが、許可を得るために多く贈物をしていることからも、この当時山内氏それだけ勢力有していたことと、そうまでしてでも毛氈鞍覆と白傘袋免許を得る価値があったことが窺われる永禄5年1562年)から始まる元就出雲侵攻で隆通は先鋒務め7月尼子氏領である出雲国牛尾半分である700貫、賀茂500貫、井能300貫、佐世700貫を与えること約束され同年10月には出雲国道前300貫も加えられた。永禄6年1563年)にも元就牛尾半分与え約束間違いではないことを重ねて申し入れている。そして永禄9年1566年)に尼子義久毛利氏降伏した永禄11年1568年1月に隆通は、比叡山延暦寺依頼して武運長久家内安全子孫繁昌息災延命祈祷し同年九州大友氏との戦い動員されている。また、元亀元年1570年)、毛利氏石見追われていた福屋隆兼出雲潜入し尼子氏再興のため出雲侵攻した尼子勝久合流したため、同年7月25日に隆通は出雲国宇祢路において福屋隆兼戦った

※この「毛利氏帰属と対尼子氏」の解説は、「山内隆通」の解説の一部です。
「毛利氏帰属と対尼子氏」を含む「山内隆通」の記事については、「山内隆通」の概要を参照ください。

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