放浪
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放浪(ほうろう)は、定住する場所を持たずに各地をさすらうこと、あてもなくさまよい歩くこと[1][2]。さすらい、流浪(るろう)、彷徨(ほうこう)とも。
- ^ 放浪、デジタル大辞泉、コトバンク、2012年9月20日閲覧。
- ^ 放浪、大辞林 第三版、コトバンク、2012年9月20日閲覧。
- ^ a b goo辞書「放浪(ほうろう)/流浪(るろう)/漂泊(ひょうはく)/流離(りゅうり) の類語・言い換え」、小学館『類語例解辞典』の解説(使い分けと関連語)より。
- ^ 松下博宣「第5講:仏教に埋め込まれたインテリジェンスの連鎖」日経クロステック、2009年5月14日。仏教の開祖である「ゴーダマ・シッダールタは放浪の旅に出て悟りを開き,釈迦牟尼世尊(しゃかむにせそん)と呼ばれるようになった」。
- ^ 西東社『図解 世界の宗教』、2010年5月10日、180頁。ジャイナ教のなかでも「白衣派の出家者は、一か所に定住せず一生にわたって放浪の生活をおくる」。
- ^ アムネスティ日本「先住民族/少数民族 - ロマの人びと」2020年7月20日閲覧。
流浪
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斎藤氏滅亡後はほぼ常に兄の弘就と行動を同じくしており、共に遠江国の今川氏真の元に仕官し、永禄12年(1569年)1月12日には天王山を守って徳川家康と戦った。同月18日には徳川方の金丸山砦を強襲し、久野宗信・小笠原氏興を敗走させている。 しかし、今川もまた徳川には敵わず同年中に掛川城は降伏・落城。再び浪人となった日根野兄弟は今度は近江国へと向かい、今井秀形・島秀安らと款を通じ近江に在住していたが、やがて浅井長政に仕えた。浅井麾下としては元亀3年(1572年)4月に海津対馬守に添えられ、伊黒城攻めに参加したが、同年冬には浅井家を去る。 その後は兄弟揃って長島一向一揆に合流したが、天正2年(1574年)9月に一揆が壊滅すると、ついに今まで臣従を避け続けていた織田家へと仕官した。
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流浪
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劉備は兵を1万余り集めたが、劉備が多数の兵を集めたことを不快に思った呂布は劉備を攻め敗走させた。劉備は曹操の元へ身を寄せた。ここで、曹操は劉備の器量を評価して優遇した。しばらくして曹操が上奏し、劉備を鎮東将軍とし、宜城亭侯に封じ、豫州の牧に任命して、劉備を援助して再び小沛に入らせた。 建安2年(197年)、楊奉と韓暹は呂布と同盟を結び、袁術を大いに撃破し、徐州・揚州付近を荒らしていたため、劉備は楊奉・韓暹を討ち取る。 建安3年(198年)春、呂布が攻めて来たので、劉備は曹操に援軍を要請した。曹操は夏侯惇を派遣したが、呂布の部下の高順に撃破され、張遼、高順らは半年以上も包囲を続け9月、遂に沛城は陥落し、劉備は逃走した(先主伝注引く『英雄記』)。劉備の妻子は再び捕虜となった。曹操は自ら出陣して劉備軍と合流すると共同して呂布を攻めて、呂布を生け捕りにした。曹操は呂布が将軍として有能なので殺すのを少しためらったが、劉備は「呂布がかつて丁原と董卓を殺したことをお忘れか」と曹操を諌めた。これを聞いた呂布は激怒し、劉備に対して「奴こそが一番信用ならぬのだぞ!」と罵倒したが、結局、呂布は絞首刑に処された。 劉備は曹操に連れられて曹操の根拠地で献帝のいる許昌へ入り、左将軍に任命された。ここでの劉備に対する曹操の歓待振りは、車を出す時には常に同じ車を使い、席に座る時には席を同格にすると言う異例のものであった。曹操と歓談していた時に曹操から「今、この天下に英雄と申せる者は、お主とこのわしのみだ。本初ごときでは不足よ」と評されている。 この頃、宮中では献帝よりの密詔を受けた董承による曹操討伐計画が練られており、劉備はその同志に引き込まれた。その後、討伐計画が実行に移される前に朱霊・路招らと共に袁術討伐に赴き、都から徐州に逃げ出す名分を得たという。袁術は袁紹と合流しようとしたが、劉備に道をふさがれたので、引き返し、やがて病死した。 袁術が死去したので、朱霊らは帰還したが、劉備は徐州に居残り、下邳を根拠地とし、徐州刺史の車冑を殺した。下邳の守備を関羽に任せて自らは小沛に移ると、多数の郡県が曹操に背いて劉備に味方した。曹操と敵対することになったので孫乾を派遣して袁紹と同盟し、曹操が派遣した劉岱・王忠の両将を破った。劉備は劉岱らに向かって「お前達100人が来たとしても、私をどうすることもできぬ。曹操殿がご自身で来られるなら、どうなるかわからぬがね」と言った。 だが、劉備の裏切りに激怒した曹操自身が攻めて来ると敵し得ず、袁紹の元へと逃げ、関羽は劉備の妻子と共に曹操に囚われた。『三国志』蜀書先主伝の注に引く『魏書』によれば、劉備は攻めて来た曹操の指揮の旗を見ると、戦わずして逃走したという。袁紹の長子袁譚をかつて劉備が茂才(郷挙里選の科目の一つ)に推挙していたので、その縁で袁紹の元へ身を寄せて大いに歓待された。 袁紹が、曹操と官渡でにらみ合っている時に、汝南で元黄巾軍の劉辟が曹操に対して反旗を翻したので、劉備は袁紹の命を受けこれに合流して、数県を攻め取ると、多くの県が曹操に背いて劉備らに味方した。この時に関羽が曹操の元を去り、劉備のところへ帰ってきた。曹操は曹仁を派遣して、劉備を撃退した。その後、劉備は袁紹の命を受け、再び汝南に侵攻し、賊の龔都らと手を結んだ。曹操は蔡陽を派遣し劉備らを攻撃させたが、蔡陽は敗北し討たれた。『三国志』趙儼伝によれば、このとき袁紹が豫州に兵を派遣し、豫州の諸郡に味方になるよう誘いをかけると、多くの郡がそれに応じたという。 袁紹が敗北したあと、自ら兵を率いて劉備討伐の構えをみせてきた曹操に対して衆寡敵せずと判断し、袁紹の元から離れ荊州の劉表の元へと身を寄せた。
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流浪
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驪姫の乱が収まり、夷吾が即位すると重耳に刺客を差し向けるようになり、危険を感じた重耳主従は斉へ亡命することにした。当時の斉は覇者と呼ばれた桓公の時代であったからである。亡命する重耳に従った者は僅かであったが、先軫はその一行の中で最も若かった。重耳の流浪の旅は結局19年続いたが、先軫は重耳が帰国するまで従った。
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