楊奉とは? わかりやすく解説

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楊奉Yang Feng

ヨウホウ
ヤウホウ

(?~197
車騎将軍・仮節鉞

もと白波賊の頭目で、のちに李傕部将となった曹操董昭彼の軍勢精強だったと言っている《董昭伝》。

興平二年(一九五)二月李傕樊稠殺害したことから長安諸将のあいだでは疑念起こり李傕郭汜互いに攻撃しあうようになった安西将軍楊定李傕残虐さを恐れ郭汜とともに献帝劉協自分陣営迎え入れようとした。それを知った李傕は兄の子李暹命じて数千人に宮殿包囲させ、天子皇后我が方招いた天子やむを得ず李傕陣営入った後漢書董卓伝》。郭汜のほうでも大尉楊彪らを人質取り李傕争った。このとき楊奉は軍勢率いて李傕味方したので、郭汜軍勢敗走した後漢書董卓伝》。

楊奉は李傕の非を知り、軍吏宋果とともに彼を暗殺しよう計画したが、計画漏れたため即座に兵を率いて叛逆した。こうして李傕権勢衰えていった《董卓伝》。

同年七月天子東方洛陽帰ろうとしたとき、郭汜車騎将軍楊定後将軍、楊奉は興義将軍董承は安集将軍自称し、ともに天子御車護送した。冬十月のある夜、郭汜部将伍習天子お泊まりになっている学舎焼き討ちし、御車迫ろうとした。楊奉は楊定とともに郭汜軍勢撃破した後漢書献帝紀》。

十一月になると李傕郭汜張済追いかけてきて、弘農郡の東の谷間官軍攻撃した天子軍勢敗北し多く大臣殺された。御車曹陽亭入れると、楊奉と董承白波賊の頭目胡才李楽韓暹、また匈奴左賢王去卑呼び寄せた。こうして董承李楽左右固め、楊奉・胡才韓暹去卑殿軍となって李傕らを撃退することができた《後漢書献帝紀・同董卓伝》。

十二月御車進めたところ、また李傕らが追いかけてきたので、天子軍勢大敗して数人大臣失った。陝に到達したところで黄河を北に渡り安邑落ち着き、翌建安元年一九六)、天子はようやく洛陽帰還することができた。安国将軍張楊は「朝廷には公卿大臣がいるのだから」と言って野王帰還し、楊奉も外に出て駐屯した。そこで張楊大司馬に、韓暹大将軍に、楊奉は車騎将軍になった後漢書献帝紀・同董卓伝》。韓暹朝廷にあって功績政治干渉した董承はそれを憂慮し兗州曹操招き入れた後漢書董卓伝》。

また朝廷には議郎董昭がおり、楊奉が最強軍勢抱えておりながら仲間少ないのを見て曹操利益与えようとして楊奉に進言した。その手紙にいわく「将軍勲功天下比類ありません。賢者用いて王政進めるべきですが、将軍お一人支えることはできません。いま私は食糧持っていますし、将軍軍勢お持ちですから、助け合うことにしましょう」。楊奉は手紙読んで喜び諸将に「兗州曹操諸軍が許に近在していて、軍隊兵糧もあるんだ。国家依頼すべきところだ」と語った。こうして連名上表して曹操鎮東将軍任じ、父の費亭侯の爵位を継がせた《董昭伝》。

そのころ曹操天子迎えようと計画していたが、彼の軍中では多くの者が「山東平定されていないし、楊奉・韓暹功績誇って好き勝手しているので、まだ制御できないでしょう」と主張した。ただ荀彧だけは「天子奉じるならば、四方豪傑逆らったとて何ほどのことがありましょう。楊奉・韓暹など問題になりません」と言った。こうして曹操洛陽入って天子推戴することになった荀彧伝》。曹操公卿以下と稟議して韓暹張楊の罪を弾劾した。すると韓暹誅殺されることを恐れ単騎で楊奉のもとに出奔した天子御車援助した功績思い起こし詔勅によって楊奉・韓暹不問とした《後漢書董卓伝》。

董昭は都を許に遷すよう曹操進言した。曹操が「楊奉が精鋭率いてにいるので困難だろう」と訊ねると、董昭は「将軍鎮東将軍・費亭侯になられたのは、すべて楊奉が画策したことですが、それは彼に味方少なかったため将軍頼ろう考えたからです。楊奉を手厚く持てなしたうえで、都に食糧がないので魯陽遷都したいと説明すれば、彼は勇猛ありながら思慮が浅いので、疑うことはありますまい」と述べた董昭伝》。

九月曹操はまず天子魯陽に遷し、そのまま許に遷そうとした。楊奉と韓暹行く手遮ったが、曹操陽城山の谷間伏兵置いていたので大敗した。楊奉らは定陵流れて荒らしまわったが、曹操が彼らの本拠地である平定したので軍勢失い、楊奉らは袁術頼って落ち延びた。こうして楊奉らは揚州徐州のあたりで乱暴狼藉を働くようになり《董昭伝・後漢書董卓伝》、詔勅によって袁術公孫瓚とともに懸賞金掛けられた《呂布伝》。

翌二年、袁術呂布通好ようとしたが、呂布は彼が帝位僭称ようとしていると知り、それを拒絶して使者韓胤殺した袁術呂布恨み大将張勲橋蕤・楊奉・韓暹らに歩騎数万人を率いさせ、七手に分かれて呂布攻撃させた。沛国陳珪呂布に「楊奉・韓暹にわかに袁術合力したのは、もともと計略あってのことではないので維持することはできません」と言上した。そこで呂布は楊奉・韓暹手紙送って言った。「二将軍御車お守りになり、呂布董卓殺しました。ともに史書名を連ねるべき功績立てたのです。いま袁術叛逆したからには一緒に討伐すべきですのに、どうして賊軍どもと呂布討とうとするのですか」と。また袁術破ったのち戦利品我が物にすることを許可した。楊奉らは大喜びし、下邳両軍対峙したとき一斉に寝返って十人将帥を斬り、呂布とともに張勲軍を大破して橋蕤生け捕りにした《呂布伝・後漢書呂布伝》。

徐州劉備呂布襲撃受けて海西逃れたが、楊奉らが周辺荒らしまわっていたので、彼を招いて殺した韓暹恐怖のため幷州逃れようとしたが、道中で人に殺害された《先主伝・後漢書董卓伝》。

参照袁術 / 郭汜 / 韓胤 / 韓暹 / 去卑 / 橋蕤 / 胡才 / 伍習 / 公孫瓚 / 荀彧 / 宋果 / 曹操 / 張勲 / 張済 / 張楊 / 陳珪 / 董承 / 董昭 / 董卓 / 樊稠 / 伏皇后 / 楊定 / 楊彪 / 李傕 / 李楽 / 李暹 / 劉協献帝) / 劉備 / 呂布 / 安邑県 / 兗州 / 海西県 / 下邳国 / 許県 / 黄河 / 弘農郡 / 山東 / 徐州 / 陝県 / 曹陽亭 / 長安県 / 定陵県 / 沛国 / 費亭 / 幷州 / 野王県 / 揚州 / 陽城山 / 洛陽県 / 県 / 魯陽県 / 安国将軍 / 安集将軍 / 安西将軍 / 興義将軍 / 公卿 / 後将軍 / 左賢王 / 車騎将軍 / 相 / 大尉 / 大司馬 / 大将軍 / 鎮東将軍 / 亭侯 / 牧 / 匈奴 / 白波


楊奉

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/02 10:17 UTC 版)

楊奉
後漢
車騎将軍
出生 生年不詳
涼州北地郡(現在の陝西省富平県
死去 建安2年4月197年)以降?
拼音 Yáng Fèng
主君 李傕袁術呂布
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楊 奉(よう ほう、? - 197年)は、中国後漢末期の武将。性格は勇猛であったが、思慮が浅い人物と評された。また曹操などは彼の軍勢が精強だったと言っている。

経歴

元々は黄巾党の一派である河東郡(現山西省南部)の白波賊の頭目であり、後に仕官して李傕に仕えた。李傕の政治姿勢への疑問から、同僚の宋果と共に暗殺を謀ったが失敗したため、李傕の下を離れて独立することとなった[1]

後に部下だった徐晃の進言に従い、献帝を連れて李傕の下から洛陽に落ち延びた[2]時、楊奉は董承らと共に李傕軍と戦った。楊奉らは李傕軍に散々に敗れ、楊奉は古巣である韓暹[3]の救援を頼るまでに追い込まれたが、李傕と和睦したことで献帝を洛陽に護送することが出来た[4]

この功績から車騎将軍に任命された。しかし、董承・韓暹及び合流した張楊らの間で抗争が起こった[2]。そのとき董昭が曹操の手紙を書いて楊奉を欺いたため、曹操の介入を招いた。曹操は楊奉を騙して、献帝を自分の勢力下であるへ連行したため、楊奉は困窮きわまり韓暹とともに略奪を働くことになった。さらに楊奉は曹操の奇襲を受けて兵を失い、徐晃が曹操に降伏したため、袁術の下へ落ち延びた[5][6]

その後、袁術軍の武将として呂布と戦ったが、建安2年(197年)夏に袁術が帝位を僭称したため、楊奉は韓暹と共に陳珪の説得に応じて呂布に寝返り、袁術軍大敗の原因を作った[7]

彼の最期は史書に大きく食い違いがあり、実態はまったく不明である。『三国志』魏書董卓伝によると『曹操が献帝を迎えた後に揚州徐州の間に逃亡しそこで略奪を繰り広げたため劉備に殺された。』[8]

同蜀書先主伝によると『呂布に徐州を奪われた後に海西に駐屯した劉備によって揚州・徐州で略奪を繰り広げていたところを攻撃され斬られた。』[9]と記録されているがこれらは建安元年(196年)のことであり前述の袁術との戦いに参加したという建安二年の記録と矛盾する(この記録は『三国志』魏書呂布伝による)。

前述の董卓伝に付けられた英雄記によると劉備に会見した際に斬られたとあるのみで時期は不明である。これが建安二年以降のことであるとすると、呂布と争って小沛に逃れていた劉備に呂布に従った彼がなぜ豫州まで赴き劉備と面会したのかという謎が残る[10][8]

脚注

  1. ^  三國志 魏書·董二袁劉傳 (中国語), 三國志/卷06#李傕、郭汜, ウィキソースより閲覧。  - 傕將楊奉與傕軍吏宋果等謀殺傕,事泄,遂將兵叛傕。傕衆叛,稍衰弱。
  2. ^ a b  三國志 魏書·張樂于張徐傳 (中国語), 三國志/卷17#徐晃, ウィキソースより閲覧。  - 李傕、郭汜之亂長安也,晃説奉,令與天子還洛陽,奉從其計。天子渡河至安邑,封晃都亭侯。及到洛陽,韓暹、董承日爭鬬,晃説奉令歸太祖;奉欲從之,後悔。太祖討奉於梁,晃遂歸太祖。
  3. ^ 以降も最期まで楊奉は韓暹と運命を共にする。
  4. ^  三國志 魏書·董二袁劉傳 (中国語), 三國志/卷06#李傕、郭汜, ウィキソースより閲覧。  - 天子乃得出,至新豐、霸陵間。郭汜復欲脅天子還都郿。天子奔奉營,奉擊汜,破之。汜走南山,奉及將軍董承以天子還洛陽。傕、汜悔遣天子,復相與和,追及天子於弘農之曹陽。奉急招河東故白波帥韓暹、胡才、李樂等合,與傕、汜大戰。奉兵敗,傕等縱兵殺公卿百官,略宮人入弘農。 (中略)諸將不能相率,上下亂,糧食盡。奉、暹、承乃以天子還洛陽。
  5. ^  三國志 魏書 武帝紀 (中国語), 三國志/卷01, ウィキソースより閲覧。  - 傕將楊奉與傕軍吏宋果等謀殺傕,事泄,遂天子之東也,奉自梁欲要之,不及。冬十月,公征奉,奉南奔袁術,遂攻其梁屯,拔之。
  6. ^  三國志 魏書·程郭董劉蔣劉傳 (中国語), 三國志/卷14#董昭, ウィキソースより閲覧。  - 建安元年,太祖定黃巾於許,遣使詣河東。會天子還洛陽,韓暹、楊奉、董承及楊各違戾不和。昭以奉兵馬最強而少黨援(中略)徙大駕至許。奉由是失望,與韓暹等到定陵鈔暴。太祖不應,密往攻其梁營,降誅即定。奉、暹失眾,東降袁術。
  7. ^  三國志 呂布臧洪傳 (中国語), 三國志/卷07#張邈, ウィキソースより閲覧。  - 術怒,與韓暹、楊奉等連勢,遣大將張勳攻布。布謂珪曰:「今致術軍,卿之由也,爲之柰何?」珪曰:「暹、奉與術,卒合之軍耳,策謀不素定,不能相維持,子登策之,比之連雞,勢不俱棲,可解離也。」布用珪策,遣人說暹、奉,使與己并力共擊術軍,軍資所有,悉許暹、奉。於是暹、奉從之,勳大破敗。
  8. ^ a b  三國志 魏書·董二袁劉傳 (中国語), 三國志/卷06#馬騰、韓遂, ウィキソースより閲覧。  - 太祖乃迎天子都許。暹、奉不能奉王法,各出奔,寇徐、揚閒,爲劉備所殺。太祖乃迎天子都許。暹、奉不能奉王法,各出奔,寇徐、揚閒,爲劉備所殺。《英雄記》曰:備誘奉與相見,因於坐上執之。暹失奉勢,孤,時欲走還并州,爲杼秋屯帥張宣所邀殺。
  9. ^  三國志 蜀書二 先主傳 (中国語), 三國志/卷32, ウィキソースより閲覧。  - 建安元年也。先主與術相持經月,呂布乘虛襲下邳。下邳守將曹豹反,閒迎布。布虜先主妻子,先主轉軍海西。楊奉、韓暹寇徐、揚閒,先主邀擊,盡斬之。
  10. ^ その後、韓暹も旧友で沛郡杼秋県屯帥(県尉)でもある張宣の討伐を受け、殺害された。三国志董卓伝注引英雄記による


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