樊稠とは? わかりやすく解説

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樊稠Fan Chou

ハンチュウ
ハンチウ

(?~195
右将軍開府万年

董卓部曲の将。

李傕郭汜らは陝に駐屯していたが、初平三年一九二)四月董卓王允殺されると、軍勢をかき集めながら西上した。樊稠は李蒙王方とともにこれに合流し六月戊午長安城陥落させた。李傕は揚武将軍、郭汜は揚烈将軍、樊稠は中郎将自称した董卓伝・後漢書同伝》。

李傕らは王允殺し董卓亡骸を郿城に葬ったが、大暴風のため冢に泥水流入してしまった。そこで担ぎだしたが、戻すたびに降って流れ込みこうしたことが三・四度も繰り返された。樊稠らが担いで半分まで水没した冢に納めた風雨はますます激しくなったので戸を閉めたところ、また強風吹いて冢を潰してしまった《後漢書董卓伝》。

同年九月李傕車騎将軍開府池陽侯・領司隷校尉・仮節、郭汜後将軍美陽侯、樊稠は右将軍万年侯、張済鎮東将軍平陽侯を自称した董卓伝・後漢書献帝紀・同董卓伝》。

興平元年一九四)三月韓遂馬騰らが攻め寄せてきたので、李傕は兄の子李利郭汜・樊稠に迎え撃たせた。長平観の下で戦闘になり、首級一万余り挙げる勝利を収めた涼州へと逃走する韓遂らを追撃したが、韓遂使者出して天下覆ってどうなるとも知れぬ同郷なのだから一言話し合おう」と樊稠に告げた。そこで馬を並べて臂を取り合い、しばらく談笑した。それを李利報告したので、李傕は樊稠に疑念抱き始めた董卓伝》。それでも樊稠と郭汜開府許し人事選抜参与させた。こうして李傕郭汜・樊稠の推挙する人間ばかりが採用され三公推挙結局無視されることになった後漢書董卓伝》。

このとき長安城内では盗賊多発しており、昼間から略奪をしているのに、李傕郭汜・樊稠は城内三分割して警備当たって取り締まることができなかった。それどころ子弟放って百姓苦しめ始末で、食糧一斛が五十銭、豆麦が二千銭にも暴騰し人々互いの肉を食らいあい、白骨はそこらに転がって町中異臭充満した後漢書董卓伝》。

八月馮翊郡投降していた羌族がまた叛逆したので、樊稠は郭汜とともに鎮圧し、斬った首は数千級に上った後漢書献帝紀・同西羌伝》。

樊稠は軍勢率いて関東進出したい、そこで兵員増強して欲しいと李傕要求した董卓伝》。樊稠が勇猛であり、そのうえ人々の心をつかんでいるのを憎んだ李傕は、翌二年二月乙亥、彼を会議招いて酒に酔わせ、その場外甥騎都尉胡封腕力で殺させた《後漢書董卓伝》。こうして李傕郭汜らは憎しみ合うことになる《董卓伝》。

参照王允 / 王方 / 郭汜 / 韓遂 / 胡封 / 董卓 / 馬騰 / 李傕 / 李蒙 / 李利 / 関東 / 陝県 / 池陽県 / 長安県 / 長平観 / 郿県 / 美陽県 / 馮翊郡 / 平陽県 / 万年県 / 涼州 / 右将軍 / 騎都尉 / 侯 / 後将軍 / 三公 / 車騎将軍 / 司隷校尉 / 中郎将 / 鎮東将軍 / 揚武将軍 / 揚烈将軍 / 開府 / 仮節 / 羌族 / 部曲 / 領


樊稠

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/10/23 18:09 UTC 版)

樊稠
代に描かれた三国志演義の樊稠の死
後漢
万年侯・右将軍
出生 生年不詳
涼州金城郡?)
死去 195年興平2年)
長安
拼音 Fán Chóu
主君 董卓李傕
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樊 稠(はん ちゅう、? - 195年)は、中国後漢時代末期の武将。涼州の人。韓遂は同郷の友とされるため、金城郡出身の可能性が高いが、郡・県の出身地は不詳。

正史の事跡

董卓配下[1]。董卓死後の初平3年(192年)6月、長安を占拠し王允らを粛清した後、李傕らと共謀して献帝を擁立した。同年9月、右将軍・万年侯となる。以後、李傕・郭汜と共に朝政を壟断した。

興平元年(194年)3月、馬騰と韓遂が李傕に背くと、樊稠は郭汜・李利と共にこれを討伐した。まず、馬騰に内応して反乱を起こした中郎将の杜稟や、侍中の馬宇らを槐里に攻め滅ぼし、馬騰・韓遂の連合軍も長平観において撃破した。この時に樊稠は、韓遂を陳倉に追い詰めながらも、同郷の友であることから見逃し、さらに談笑して別れた。この場面を李利が目撃して李傕に密告したため、李傕は樊稠に猜疑心を抱き始めた。同年8月には、馮翊の族が反乱したため、樊稠は郭汜と協力して、これを撃ち破った。しかし、まもなく李傕ら指導者間で権力争いが勃発し、興平2年(195年)2月、樊稠は李傕に殺害されてしまった。

なお、樊稠の最期については2説ある。『三国志』董卓伝注に引く『九州春秋』によれば、上記の李利の密告が原因で、内通を疑った李傕に会議の席上で殺されたとある。一方、『後漢書』董卓伝注に引く『献帝紀』によると、李傕は樊稠が勇猛果敢で部下からの人望が厚いことを恐れ、樊稠が酒に酔ったところを、配下の騎都尉であった胡封に暗殺させたという。いずれにしても、西涼軍を撃退できる力量を持った同僚を内紛で葬り去ったことで、李傕はかえって自滅の道を辿ることになった。

物語中の樊稠

小説『三国志演義』でも、ほぼ史実同様に描かれているが、その最期については『九州春秋』の説が採用されている。

脚注

  1. ^ 後漢書』董卓伝・『三国志』魏書董卓伝等に記述がある。

参考文献

  • 後漢書』列伝62董卓伝
  • 同本紀9孝献帝紀
  • 三国志』魏書6董卓伝、付・李傕郭汜伝
  • 三国演義
  • 盧弼『三国志集解』(古籍出版社、1957年)


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