樊深とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 樊深の意味・解説 

樊深

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/29 00:34 UTC 版)

ナビゲーションに移動 検索に移動

樊 深(はん しん、生没年不詳)は、中国北魏末から北周にかけての官僚儒学者は文深。本貫河東郡猗氏県

経歴

樊保周の子として生まれた。早くに生母を失い、継母に孝事した。弱冠にして学問を好み、師に従って五経を講習した。北魏の永安年間、軍の征討に従い、功績により盪寇将軍の号を受け、伏波将軍・征虜将軍を経て、中散大夫の位を受けた。書を読んで虞丘子に感銘を抱き、帰郷して父母を養った。

534年永熙3年)、孝武帝関中に入ると、河東の樊氏は孝武帝を支持したため、東魏による粛清を受け、樊深の父や叔父も殺害された。樊深は姓名を変えて、汾州晋州の間を遊学し、天文と算暦の術を習った。後に告発を受けて捕らえられ、河東に送られた。樊深の儒学は韓軌の長史の張曜に重んじられていたため、家に帰らされ、再び逃亡することができた。

537年大統3年)、宇文泰が河東を平定すると、樊深は故郷に帰って父を弔い、自ら土を背負って墓を作った。まもなく于謹に参軍として召されて、館の子弟に学問を教授した。撫軍将軍・銀青光禄大夫の位を受け、開府属となり、従事中郎に転じた。于謹が司空となると、樊深はその下で諮議をつとめた。549年(大統15年)、下邽県の事務を代行した。

宇文泰が学東館を置いて、諸将の子弟に学問を教授する制度を整えると、樊深は博士に任じられた。樊深は漢魏以来の諸家の注釈を多く引いて経学を説いたため、その講義を聴く子弟たちは内容を理解することができなかった。しかし儒者はその広い知識ぶりを高く評価した。朝に夕に学問漬けの生活で、馬の鞍上でさえ読書していたため、落馬して骨折したこともあったが、その態度は終生改まらなかった。後に国子博士に任じられ、勿忸于氏の姓を賜った。556年恭帝3年)、六官が建てられると、大学助教に任じられた。博士に転じ、車騎大将軍・儀同三司の位を加えられた。567年天和2年)、県伯中大夫に転じ、開府儀同三司の位を加えられた。572年建徳元年)、引退を願い出て、武帝の許しをえた。引退後も朝廷で議論が起こると、召し出されて諮問に応じた。後に病没した。著作に『孝経問疑』1巻・『喪服問疑』1巻・『七経異同説』3巻・『義綱略論』および『目録』31巻があり、当時に通行した。

伝記資料




英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「樊深」の関連用語

1
4% |||||

2
4% |||||

3
2% |||||

樊深のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



樊深のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの樊深 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS