樊沢とは? わかりやすく解説

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樊沢

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/04/11 10:10 UTC 版)

樊 沢(はん たく、742年 - 798年)は、唐代官僚軍人は安時。本貫河中府[1][2]

経歴

大理寺評事の樊詠の子として生まれた。樊沢は河朔で成長し、相衛節度使の薛嵩に見出されて磁州司倉参軍堯山県令をつとめた。建中元年(780年)、賢良対策科に挙げられ、礼部侍郎于邵に厚遇された。楊炎と仲が良く、その推薦を受けて補闕となり、都官員外郎をつとめた。樊沢は兵書を読むのを好み、唐の朝廷にその将帥としての才能を求められた。建中3年(782年)、御史中丞を兼ね、吐蕃に対する使節をつとめた。吐蕃の宰相の尚結賛に礼遇された。建中4年(783年)、鳳翔節度使の張鎰に従って吐蕃と清水で会盟し、金部郎中・御史中丞・山南節度行軍司馬に転じた。李希烈が反乱を起こし、普王李誼が行軍元帥となると、樊沢は召し出されて諫議大夫・元帥行軍右司馬となった。徳宗奉天に避難すると、樊沢は太子右庶子に転じ、御史中丞を兼ね、再び山南東道行軍司馬をつとめた。興元元年(784年)、賈耽に代わって襄州刺史となり、御史大夫を兼ね、山南東道節度観察等使をつとめた[3][4]

樊沢は武芸に秀で、諸将と狩猟をおこなうたびに、最も優秀な成果をおさめた。たびたび李希烈の軍と白兵戦をおこない、前後して反乱軍の驍将の張嘉瑜・杜文朝・梁俊之・李克誠・薛翼らを捕らえ降し、唐州随州を奪回した。李希烈の乱を平定すると、母が死去したため、樊沢は喪に服した。余官はもとのまま、右衛大将軍同正として復帰した。貞元3年(787年)、張伯儀に代わって荊南節度観察等使・江陵尹となり、御史大夫を兼ねた。貞元5年(789年)、検校礼部尚書を加えられた。貞元8年(792年)、襄州節度使の曹王李皋が死去したため、襄州の軍中は混乱に陥った。樊沢は襄・漢での威名が顕著であったことから、再び襄州刺史・山南東道節度使となった。貞元12年(796年)、検校尚書右僕射を加えられた[5][6]。貞元14年(798年)9月己酉、死去した[7]。享年は57。司空の位を追贈された[5][6]

脚注

  1. ^ 旧唐書 1975, p. 3505.
  2. ^ 新唐書 1975, p. 4952.
  3. ^ 旧唐書 1975, pp. 3505–3506.
  4. ^ 新唐書 1975, pp. 4952–4953.
  5. ^ a b 旧唐書 1975, p. 3506.
  6. ^ a b 新唐書 1975, p. 4953.
  7. ^ 旧唐書 1975, p. 388.

伝記資料

参考文献




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