韓暹とは? わかりやすく解説

韓暹Han Xian

カンセン

(?~197
大将軍・仮節鉞・領司隷校尉

白波賊の頭目

興平二年(一九五)十一月献帝劉協御車曹陽亭において露営したとき、楊奉董承によって胡才李楽匈奴左賢王去卑とともに御車警護のため呼び出された。彼らは御車守り李傕郭汜らを撃ち破った。翌十一月御車進発させると、李傕らはまた追いかけてきたが、天子軍勢大敗して多く大臣失った後漢書献帝紀》。

建安元年一九六)二月、韓暹は衛将軍董承仲違いして彼を攻撃し董承出奔し張楊のもとに去っている。八月天子洛陽楊安殿に遷座すると、安国将軍張楊大司馬に、韓暹を大将軍・領司隷校尉に、楊奉車騎将軍任じそれぞれ仮の節鉞を与えた楊奉は外に出て駐屯し、韓暹は董承とともに天子近辺警護あたった後漢書献帝紀・同董卓伝》。

韓暹は功績誇って好き勝手に政治干渉していたが、董承は彼を憎み密かに兗州曹操引き入れようとした《後漢書董卓伝》。議郎董昭もまた楊奉説得して曹操迎え入れさせた《董昭伝》。曹操軍中では、多くが「山東平定されてないのに、韓暹・楊奉功績誇って勝手なことをしており、まだ制御することはできません」と反対したが、荀彧だけは「天子推戴すれば四方豪傑逆らったとしてもどうにもできますまい。韓暹・楊奉など問題ではありません」と主張した曹操彼の計略に従って天子出迎えた荀彧伝》。

曹操洛陽に入ると、公卿審議して韓暹・張楊の罪を上奏した。韓暹は誅伐恐れて楊奉のもとに脱走した。しかし天子は韓暹・張楊御車補佐した功績によって、その罪を不問とした《後漢書董卓伝》。

曹操天子を許に遷そうと考えたが、楊奉・韓暹が邪魔立てするのではないかと心配した。そこで董昭進言した。「まず楊奉手厚くねぎらいそののち食糧運搬便利な魯陽一時的に遷都したいと説得すれば、楊奉腕っ節だけで思慮がないので疑うことはなでしょう」。曹操はその計略従った董昭伝》。

九月御車東方出立すると韓暹・楊奉後悔し軍勢率いて追跡した軽装騎兵追い付くことができたが、陽城山の伏兵襲われ大敗した後漢書董卓伝》。曹操定陵荒らしまわる韓暹らを相手にせず、彼らの本拠地である占領して、その勢力を弱らせた。韓暹らは袁術頼って落ち延びた董昭伝》。こうして楊奉・韓暹は、袁術公孫瓚とともに詔勅によって懸賞金付きお尋ね者になった呂布伝》。

翌二年、袁術使者韓胤呂布殺されたことに怒り大将張勲橋蕤とともに楊奉・韓暹を出陣させ、歩騎数万人で七手から呂布攻めさせた。しかし呂布は韓暹らに手紙送って「二将軍御車補佐し呂布董卓誅殺して、ともに史書功名記されるものと思っていましたが、どうして袁術叛逆同調して呂布討伐しようとなさるのですか」と言いすべての戦利品所有認めたので、韓暹らは大喜びして彼に内通した。張勲軍が下邳到達して呂布軍対峙したとき、韓暹らは寝返って数人将帥殺し橋蕤生け捕りにした。彼らに殺されたり、落ちて死ぬものは数え切れなかった《呂布伝・後漢書呂布伝》。

のちに楊奉左将軍劉備殺害されたので、恐れ抱いた韓暹は幷州目指し逃走した。しかしその道中で人に殺されてしまった《後漢書董卓伝》。

参照袁術 / 郭汜 / 韓胤 / 去卑 / 橋蕤 / 胡才 / 公孫瓚 / 荀彧 / 曹操 / 張楊 / 張勲 / 董承 / 董昭 / 楊奉 / 李傕 / 李楽 / 劉協献帝) / 劉備 / 呂布 / 兗州 / 下邳国 / 許県 / 山東 / 曹陽亭 / 定陵県 / 幷州 / 楊安殿 / 陽城山 / 洛陽県 / 県 / 魯陽県 / 安国将軍 / 衛将軍 / 議郎 / 公卿 / 左賢王 / 左将軍 / 車騎将軍 / 司隷校尉 / 大司馬 / 大将軍 / 牧 / 仮節鉞 / 匈奴 / 白波賊 / 領


韓暹

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/04/02 00:48 UTC 版)

韓暹
後漢
大将軍
出生 生年不詳
并州?
死去 197年建安2年)?
豫州沛郡杼秋県
拼音 Hán Xiān
主君 楊奉袁術呂布
テンプレートを表示

韓 暹(かん せん、? - 197年)は、中国後漢時代末期の武将。并州の人と見られる。

正史の事跡

当初は河東郡の白波軍(白波賊・河東黄巾党)の頭領。仲間の頭領には李楽胡才がいて、李傕配下の楊奉もかつては白波軍の一員だった。

興平2年(195年)、献帝長安から脱出した時、李傕・郭汜両名の追撃に遭ったが、楊奉・董承から招聘された韓暹は、李楽・胡才とも協力し、献帝を護衛した。同年12月、洛陽への途上の安邑で、献帝から征東将軍に任じられた(『三国志』魏書董卓伝による。『後漢書』董卓伝によると、この時に征東将軍に任命されたのは胡才である)。

建安元年(196年)7月、無事に献帝を守り抜いて洛陽に入城し、翌月にはその功績から大将軍の位を授与された。だが、韓暹は得た官位をいいことに、仲間や部下の盗賊達を好き勝手に官職へ任命したため、董承と対立したという。やがて、献帝が曹操の元で庇護を受けるようになると、正統性を喪失した韓暹は楊奉と共に定陵方面で略奪を働かざるを得なくなり、そこを曹操軍に衝かれて撃破された。このため韓暹は楊奉と共に袁術の下へ落ち延び、その部将となった。

建安2年(197年)、袁術の呂布討伐に従うが、呂布の命を受けた陳珪から好条件を餌として説得されると、楊奉と共に呂布軍へ寝帰った。また袁術軍の将軍十数名を斬り殺す活躍を見せ、これを撃ち破った。

彼の最期は史書に大きく食い違いがあり、実態はまったく不明である。『三国志』魏書董卓伝によると『曹操が献帝を迎えた後に揚州徐州の間に逃亡しそこで略奪を繰り広げたため劉備に殺された』

同蜀書先主伝によると『呂布に徐州を奪われた後に海西に駐屯した劉備によって揚州・徐州で略奪を繰り広げていたところを攻撃され斬られた』と記録されているがこれらは建安元年(196年)のことであり前述の袁術との戦いに参加したという建安二年の記録と矛盾する(この記録は『三国志』魏書呂布伝による)。

前述の董卓伝に付けられた英雄記によると楊奉が劉備に会見の場で斬られると、韓暹は逃亡し、旧友で沛郡杼秋県屯帥(県尉)でもある張宣の討伐を受け、殺害され、その首級は劉備の下に届けられたという。これが建安二年以降のことであるとすると、呂布と争って小沛に逃れていた劉備に呂布に従った両者がなぜ豫州まで赴き面会したのかという謎が残る[1]

物語中の韓暹

小説『三国志演義』でも登場するが、史実とは異なり、李楽が暴虐を繰り返しているため、韓暹はそれほど目立っていない(史実の李楽は、献帝派武将の中で最も悪事の記録が少ないとすら言える)。その後は史実同様、楊奉と共に曹操に戦いを挑んで敗北し、袁術に降った後、さらに呂布に寝返っている。

その後、呂布と結びつくことを恐れた陳珪の策により、韓暹は沂都に駐屯させられたが、略奪が酷かったため劉備に誅殺され、首級を曹操に献上されている。

脚注

  1. ^ その後、韓暹も旧友で沛郡杼秋県屯帥(県尉)でもある張宣の討伐を受け、殺害された。三国志董卓伝注引英雄記による。

参考文献

  • 後漢書』列伝62董卓伝
  • 同本紀9孝献帝紀
  • 同列伝65呂布伝
  • 三国志』魏書6董卓伝及び注引く英雄記
  • 同魏書7呂布伝
  • 同魏書14董昭伝
  • 同蜀書2先主伝
  • 三国演義



固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「韓暹」の関連用語

韓暹のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



韓暹のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
むじん書院むじん書院
Copyright (C) 2025 mujin. All Rights Reserved.
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの韓暹 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS