龔都とは? わかりやすく解説

龔都

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/26 06:52 UTC 版)

龔 都[1](きょう と、生没年不詳)は、中国後漢末期に汝南で活動した賊将。

生涯

建安5年(200年)7月、袁紹の下にいた劉備は、その下を離れることを望み、名目として荊州劉表と連携することを進言。その思惑通りに指示を受けた劉備は、敵対する曹操軍の後方に当たる汝南へ向かい、同地の賊徒である龔都の軍と合流。その勢力は数千人に上った。曹操は蔡陽を派遣したが、撃ち破られた[2]

建安6年(201年)9月、曹操が自ら討伐に向かうと、劉備は劉表の下へと逃走した。龔都の軍勢は四散し、その後の動向は不明[3]

三国志演義

小説『三国志演義』では劉辟と共に、黄巾党の残党として登場[4]。初めは袁紹に帰順していたが(第26回)、劉備の軍勢が南下してくると彼らと行動を共にする(第28回)。

劉備が許昌攻略を図り、曹操軍と対峙している最中、龔都は汝南から食糧の運搬を担当していたが、曹操の別軍によって襲撃を受ける。張飛が救援に向かうが、駆けつけた時には既に夏侯淵によって殺されていた(第31回)。

脚注

  1. ^ 陳寿三国志』魏書 武帝紀では共都とする。
  2. ^ 司馬光資治通鑑』巻63 漢紀55
  3. ^ 『資治通鑑』巻64 漢紀56
  4. ^ 正史『三国志』では「黄巾」と表記されるのは劉辟のみ。

龔都

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/30 03:45 UTC 版)

三國志曹操伝」の記事における「龔都」の解説

穣山の戦い登場夏侯淵一騎討ちをした場合自分の剣裁き夏侯淵見せつけている最中を射抜かれてしまう。

※この「龔都」の解説は、「三國志曹操伝」の解説の一部です。
「龔都」を含む「三國志曹操伝」の記事については、「三國志曹操伝」の概要を参照ください。

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