官渡砦攻防
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こうして曹操軍は袁紹軍の出鼻を叩きはしたが、袁紹の本隊が渡河する前には延津を放棄し、官渡へ敗走した。官渡は黄河から南東へ流れる官渡水を望み、濮水、陰溝水やその支流が複雑に交差する天険の地であり、曹操は兼ねてより河北・山東からの脅威を睨んでこの地に砦を整備してきていた。 黄河を渡河した袁紹は陽武(現在の河南省新郷市原陽県)に軍を進めた。沮授は「北(袁紹陣営)は数は多いが、勇猛さでは南(曹操陣営)に及びません。しかし食料の点では南は少なく、北に及ばない。南は速戦、北は持久戦が有利です」と進言したが、退けられた。 8月、袁紹は本隊で曹操軍を攻め、大兵力を生かし東西数十里に渡る陣を布いて少しずつ前進する、という戦術で曹操の陣営を圧迫した。曹操も陣営を分けて合戦したが、敗れ、官渡の砦に引き返した。砦に籠もった曹操に対して、袁紹は土山を築いたり地下道を掘ることで城壁を無効化しようとしたが、曹操も内部に同じものを造って対応した。また、袁紹は物見櫓を造り、土山から曹操陣営内に矢を射掛けた。曹操軍はこの攻撃に苦戦したが、于禁が土山の指揮をして奮戦したので曹操軍の戦意は上がった。また、曹操は発石車を造り、これらの物見櫓を破壊した。袁紹軍は投石を避けるため坑道を掘りながら前進を試みたが、曹操軍が急造した塹壕に阻まれた。 豫州の汝南郡(袁氏本貫の地)において劉辟が曹操に対して反乱を起こすと、袁紹は劉備を派遣してこれを支援し、許昌周辺を荒らし回って多くの県を寝返らせた。曹操は曹仁の分析に従い、曹仁の騎兵部隊を派遣してこれを打ち破り、諸県を奪回した。曹仁が帰還した後、劉備は再度袁紹の命を受けて汝南に侵攻し、賊の龔都らと手を結んだ。曹操は今度は蔡陽を派遣して劉備を攻撃させたが、蔡陽は敗北して討たれた。「趙儼伝」には、袁紹が豫州に兵を派遣し、豫州の諸郡に対し調略をかけると、多くの郡がそれに応じたとある。劉備ら袁紹軍の別働隊の活動により、曹操は本拠地の豫州の維持さえ困難になってきていた。 曹操は荀攸の進言に従って、史渙と徐晃に袁紹軍の輸送隊を攻撃させ、数千台の穀物輸送車を焼き払ったものの、その間にも曹操軍の食糧不足は更に深刻な状態となっていた。また袁紹側もこれら曹操の妨害もあり、兵糧補給に難を生じ始めた。そこで袁紹は眭元進・韓莒子・呂威璜・趙叡の四将を淳于瓊に指揮させ、輸送された食糧を備蓄した兵糧庫を守備させようとした。このときに沮授は淳于瓊に加えて蔣奇に別働隊を指揮させて守備を万全にすることを袁紹に進言したが、またしても受け入れられなかった。 袁紹軍も曹操軍の輸送部隊をたびたび攻撃したが、曹操軍の輸送部隊を任された任峻が輸送部隊の防衛を強化すると、袁紹軍は曹操軍の輸送部隊を攻撃しなくなった。 戦況は持久戦の様相を呈し始め、曹操陣営の食料は日に日に少なくなっていった。兵糧が枯渇し、連日袁紹軍の攻城にさらされる中、曹操軍内には投降を考えて袁紹と内通する、あるいはそれを考える者が続出した。弱気になった曹操は、許昌の留守番をしていた荀彧に対して「引き返すことで袁紹軍をおびき寄せて滅ぼすつもりである」という婉曲的に撤退を希望する手紙を出したが、荀彧はこれを強く諌め、「内情を見るに必ず袁紹軍に変事があるので、奇策を用いる機会を逃さなければ勝てます」と進言した。
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