官渡砦攻防とは? わかりやすく解説

官渡砦攻防

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/29 18:27 UTC 版)

官渡の戦い」の記事における「官渡砦攻防」の解説

こうして曹操軍袁紹軍出鼻叩きはしたが、袁紹本隊渡河する前に延津放棄し官渡敗走した官渡黄河から南東流れ官渡望み、濮、陰溝やその支流複雑に交差する天険の地であり、曹操兼ねてより河北山東からの脅威睨んでこの地に砦を整備してきていた。 黄河渡河した袁紹陽武現在の河南省新郷市原陽県)に軍を進めた沮授は「北(袁紹陣営)は数は多いが、勇猛さでは南(曹操陣営)に及びません。しかし食料の点では南は少なく、北に及ばない。南は速戦、北は持久戦が有利です」と進言したが、退けられた。 8月袁紹本隊曹操軍攻め大兵力を生かし東西数十里に渡る陣を布いて少しずつ前進する、という戦術曹操陣営圧迫した曹操陣営分けて合戦したが、敗れ官渡の砦に引き返した。砦に籠もった曹操に対して袁紹土山築いた地下道を掘ることで城壁無効化ようとしたが、曹操内部に同じものを造って対応したまた、袁紹物見櫓造り土山から曹操陣営内に矢を射掛けた。曹操軍はこの攻撃苦戦したが、于禁土山指揮をして奮戦したので曹操軍戦意上がったまた、曹操は発石車造り、これらの物見櫓破壊した袁紹軍投石避けるため坑道掘りながら前進試みたが、曹操軍急造した塹壕阻まれた。 豫州汝南郡袁氏本貫の地)において劉辟曹操に対して反乱を起こすと、袁紹劉備派遣してこれを支援し許昌周辺荒らし回って多くの県を寝返らせた。曹操曹仁分析従い曹仁騎兵部隊派遣してこれを打ち破り諸県奪回した曹仁帰還した後、劉備再度袁紹の命を受けて汝南侵攻し、賊の龔都らと手を結んだ曹操今度蔡陽派遣して劉備攻撃させたが、蔡陽敗北して討たれた。「趙儼伝」には、袁紹豫州に兵を派遣し豫州の諸郡に対し調略をかけると、多くの郡がそれに応じたとある。劉備袁紹軍別働隊活動により、曹操本拠地豫州維持さえ困難になってきていた。 曹操荀攸進言に従って史渙徐晃袁紹軍輸送隊攻撃させ、数千台の穀物輸送車焼き払ったものの、その間にも曹操軍食糧不足は更に深刻な態となっていた。また袁紹側もこれら曹操妨害もあり、兵糧補給に難を生じ始めた。そこで袁紹眭元進韓莒子呂威璜趙叡の四将を淳于瓊指揮させ、輸送され食糧備蓄した兵糧庫守備させようとした。このときに沮授淳于瓊加えて蔣奇別働隊指揮させて守備万全にすることを袁紹進言したが、またしても受け入れられなかった。 袁紹軍曹操軍輸送部隊をたびたび攻撃したが、曹操軍輸送部隊任され任峻輸送部隊防衛強化すると、袁紹軍曹操軍輸送部隊攻撃しなくなった戦況持久戦様相呈し始め曹操陣営食料日に日に少なくなっていった兵糧枯渇し連日袁紹軍攻城さらされる中、曹操軍内には投降考えて袁紹内通する、あるいはそれを考える者が続出した弱気になった曹操は、許昌留守番をしていた荀彧に対して「引き返すことで袁紹軍をおびき寄せて滅ぼすつもりである」という婉曲的撤退希望する手紙出したが、荀彧はこれを強く諌め、「内情を見るに必ず袁紹軍変事があるので、奇策用い機会を逃さなければ勝てます」と進言した。

※この「官渡砦攻防」の解説は、「官渡の戦い」の解説の一部です。
「官渡砦攻防」を含む「官渡の戦い」の記事については、「官渡の戦い」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「官渡砦攻防」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「官渡砦攻防」の関連用語

官渡砦攻防のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



官渡砦攻防のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの官渡の戦い (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS