官渡の戦い以後
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建安5年(200年)、官渡の戦いで最前線に立って最大の敵である袁紹を破り、その勢いを削いだ。 建安7年(202年)、袁紹が病死し、袁氏の勢力は袁紹の息子の袁譚と袁尚に分裂した。 建安9年(204年)、袁尚の本拠である冀州の鄴(現在の河北省邯鄲市臨漳県)を攻め落とし、ここに本拠地を移す。同年9月、献帝は曹操に冀州牧を担当させたため、曹操は兗州牧を辞退して返上した。 建安10年(205年)、袁譚を滅ぼし、冀州を平定した。同年、黒山軍の張燕が十数万人の軍勢を率いて降伏してきた。 建安11年(206年)、袁紹の甥の高幹を討伐し、并州を平定した。 建安12年(207年)、袁氏に味方する蹋頓ら烏桓族を討ち、二十数万人を降伏させ、袁紹の子の袁尚・袁煕を滅ぼし、幽州を平定し、河北(黄河の北岸地域)を統一した(白狼山の戦い)。 曹操の勢力は圧倒的なものとなり、残るは荊州の劉表・江東の孫権・益州の劉璋・漢中の張魯・関中の馬騰を筆頭とした群小豪族、寄る辺の無い劉備だけとなった。 建安13年(208年)春正月、三公制を廃止し、丞相と御史大夫を置いた。同年6月、献帝は曹操を丞相に任命した。同年秋7月、曹操は15万の軍を南下させ、劉表征討に赴いた。8月、劉表が病死した。9月、劉表の子の劉琮は代わって襄陽に駐屯していたが曹操に降伏し、劉備や劉琮は夏口へ逃走した。曹操は江陵に軍を進めた。そこで荊州を服従させた功績を判定し、荊州の名士韓嵩や鄧義らを任用した。また、益州牧劉璋がはじめて兵を提供してきた。 同年12月、長江南岸沿いに進んで孫権を討とうとしたが、孫劉連合軍に敗れた(赤壁の戦い)。長江北岸に引き上げ、曹操が敗走すると孫劉連合軍に荊州の大部分を奪われた。 建安14年(209年)春3月、曹操は軍を率いて譙に到着した。秋7月、水路を経て合肥に陣取った。前年、揚州刺史の劉馥が死去していたため、揚州の郡県に長吏を置き、芍陂に屯田を開設し、軍備を整えた。12月、曹操は軍を率いて譙に帰還した。 建安16年(211年)、馬超をはじめとする関中の軍閥連合軍を破った(潼関の戦い)。その後、曹操軍の夏侯淵らが関中の軍閥連合軍の残党を制圧した。赤壁の戦いが終わった後も、曹操軍はその8年間(209年-217年)にわたり、孫権軍と巣湖周辺(合肥・濡須)で攻防戦を繰り広げた。その間、曹操は家臣の進言を受け入れず、四度も総力をあげた巣湖濡須の戦いで敗れて、大な戦果はなかったため、最終的には全て孫権により撃退された。 建安18年(213年)に董昭らの提案に従い魏公となり、建安21年(216年)に魏王に封じられ、後漢皇帝が治める帝国内の一藩国、つまり王国として魏を建国。献帝には権力は無く、実際には後漢を背負う曹操だが、最後まで帝位にはつかず後漢の丞相の肩書きで通した。簒奪の意を問われた曹操は「自分は(周の)文王たればよい(文王は殷(商)の重臣として殷に取って代われる勢力を持っていたが死ぬまで殷に臣従し、殷を滅ぼした子の武王によって「文王」を追号された)」としてその意を示唆したともいう。 建安20年(215年)、漢中の張魯を降伏させた(陽平関の戦い)。漢中平定後、劉曄と司馬懿は、この勢いに乗じて劉備が支配して間もない益州に侵攻するよう曹操に進言したが、この意見は却下されている。217年末-219年間、曹操軍はその2年間にわたり、漢中を侵攻した。 建安24年(218年)、曹操は劉備討伐のために長安に入った。劉備軍が涼州武都まで兵を進めたが曹洪を派遣し呉蘭らを斬り善戦し張飛、馬超らは敗走した。一方、劉備本隊は陽平関に入り夏侯淵と対峙した。曹操は漢中の数万の住民を長安に移住させると、さらに一方では翌年に漢中を守備している夏侯淵が兵を割き、わずか400の兵で陣の修復に向かった。その隙に夏侯淵が黄忠に討ち取られた(定軍山の戦い)。曹操は自らふたたび漢中まで出向くも、陽安で徐晃が陳式を破るなど劉備との間で持久戦が続いた。同年5月曹操は漢中を「鶏肋」と形容し、攻略を諦めて撤退を命じ、漢中を劉備が領有した。また、劉備の配下武将の関羽が曹操の勢力下の樊城・襄陽を包囲し、曹操の配下武将の于禁・龐徳を捕虜とした。さらに、鄴においては丞相掾の魏諷が関羽に通じて反逆し、さしもの曹操も遷都まで考えるほどであったが司馬懿・蔣済の提案に従い、孫権へ結盟を求め、関羽を破った(樊城の戦い)。 建安25年(220年)、病のため死去。「戦時であるから喪に服す期間は短くし、墓に金銀を入れてはならず」との遺言を残した。死後、息子の曹丕が後漢の献帝から禅譲を受け皇帝となると、太祖武帝と追号された。
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